2020年4月16日木曜日

【Daily Open Windows】4月16日

四月十六日

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(ヨハネ六・六十三)

神の目的の全体像を知り、また、理解して、自分をその目的に明け渡すことと、神がどのようにしてその目的を実現するのかを知ることは、まったく別の問題です。主が用いる手段を知ることは、さらにまた、別の問題です。多くの人々が、神の目的とは何か、その真の全体像を把握していながら、そこで用いる手段が、神の手段ではなく、そのために働きを始める道も、主の道ではないために、主が自分を支えてくれないことに気づきます。彼らは、正しい方向を向いているのかもしれませんが、主と同じ方法や手段を用いていないために、働きの責任を自分で引き受け、そのために必要な手立ても自分で見つけるしかないと思い込んでしまいます。こうして、多くの場合、彼らは気が付けば、消耗し切って、行き詰ってしまい、そして、神の働きを続ける備えを、あらゆる方法と手段を使ってかき集めるしかなくなりますが、これは、神ご自身からの手助けを、本当に享受していないからです。神の働きは彼らの肩の上の重荷となり、そして、そのようなかたちでしか、主には命じることはできません。なぜなら、彼らと、主のやり方、主の方法、主の手段、主の時間、そして、細部に至る主の目的は、完全に分かち合い、完全に一致していることがないからです。


さて、主イエス様の場合を見ると、これとは全く反対でした。細部に渡って、主は御父との隠れた交わりの中にありました。これが主にとって、何を意味していたかと言えば、ただひとつの包括的な目的に、細部に至るまで従っていたということです。どのようなことが起ころうとも、主が求めたただひとつの説明は、御父がそれを望んでいたかということであり、それ以上を求めることなく、主は実行しました。これが、主と御父との関係の根本でした。主の中には、あることがなぜ、このかたちで、また、別の時ではなく、この時に行われなければならないのか、また、なぜ、別の方法ではなく、この手段を取らなければならないのか、その答えを問い質そうとする気配すら見られません。御父が、それを望んでおられるというだけで十分でした。説明は、その後に続く正当化と裏付けの中で与えられました。神の御心を実行するのは、この従順のゆえであり、決して、自分の気持ちから出てくるのではなく、常に、御父から生じるものでした。主の場合、必ずこのようにされていたので、そこには、生存、保持、力、そして、活力を支える霊的な助けが常に備えられていました。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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