2020年4月20日月曜日

【Daily Open Windows】4月20日

四月二十日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ六・五十三)

この道は、肉にとって、生まれたままの人間にとっては、非難を浴び続ける道であることを覚えておきましょう。ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか』と言って、互いに議論し合いました。しかし、それはユダヤ人たちだけではなく、宗教的に自己満足しきっていた敬虔な人たちも論じ合いましたし、また、こうも書かれています、『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』


弟子たちでさえ、前に進むことができないこともありました。この不明瞭な言葉を投げかけられたとき、弟子たちは、そのような考えに立ってまで、主との関わりを続けたい望む気持ちを失ってしまいました。肉とは、自分の中で何かをしていること、計画を立てていること、日程を調整していること、働きを組織していること、それを指揮していること、そして、それをうまく進めていることなどを好むものです。肉はその中で大いに楽しみます。そして、あなたがそこに現れて、その場を取り仕切っている者たちにこう告げるとします、『神の道とは、完全な依存と信仰の道で、そこで聖霊がすべてを取り仕切っており、あなたは、自分で手を下さず、主が命じることだけをしたい、他の事はしたくないと、望まなくてはならない』(これは、『わたしは、自分からは何事も行なうことができません』という御言葉が伝えていることです)。これは、生まれたままの人間に対しては、侮辱的なことばであり、それは、宗教的な事柄においても同じです。

私たちは、絶えず、このような問題に直面しているのではないでしょうか?これは、アンテオケの人たちがしたように、皆がひとつに集まって、すべてを祈りの中でことばに出し、それが主の御心であると示していただくことと、委員会が会合を開いて、なにごとかを提案したり、計画を策定することの違いです。生まれたままの人間は、ものごとの全体を自分が取り仕切って、調整し、指図し、切り盛りするのでなければ、何ひとつ、前に進まないと考えるものです。自分で目標を立て、自分が考えた計画を公表し、そして、自分がしていることを宣言した上で、その結果を数値にして発表しているのでなければ、生まれたままの心を持っているキリスト者は、何ひとつ行われていないと考えます。このような行動を何もしなくても、すばらしいことを成し遂げることは可能なのです。

私たちは、上にあるようなことを並べ立てて、説明しようとします。多くの方面にこのようなやり方を広げることはできても、それは、頭の中の考えの補助にしかなりません。キリストの中に神が御心を完全に達成されるためには、信仰を通して仲介される神のいのちが基盤となります。これは、キリストが、霊的な意味で、すべての基本でなければならないことを、別のことばで表しているのです。これは、肉に対しては、不快なことですが、聖霊の願いはここで成就されます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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