2020年4月9日木曜日

【Daily Open Windows】4月9日

四月九日

生まれながら(魂的な)の人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(第一コリント二・十四)

第一コリントを見ると、どれだけ、魂から出る思い(soulicalism)があふれているでしょう。いたるところに、ことばの知恵、この世の知恵、さまざまな好感情と悪感情、好み、偏った愛情と嫌悪、そして、彼らのねたみが見られます。これはこの土台の上では、これは、よいものとは言えません。あなた自身の魂の生活を、キリストと結びつけることをしてはいけません。この二つを、足し合わせることはできないし、最後までひとつでいることもなく、煙とともに消えていくだけです。あなたは自分のキリスト信仰を、どう感じるかという問題にしようとしているのでしょうか?そうなれば、あなたは、種々雑多なものが交じり合ったキリスト信仰を持つことになり、そこに一貫したものはなく、まったくの継ぎはぎでしかありません。何かの問題のことで、非常によい論理的な結論に達したと思うと、そこで何かが起こり、すべてがひっくり返ってしまうでしょう。・・・


このような信仰がうまくいくことは、絶対にありません。頭の中で考えを巡らしたり、一人で葛藤するとき、あなたの魂は、決して、キリストとは一致しません。そして、自分自身の魂の意思、実行する力を思うとき、私たちは自分を非常に強いものと感じ、もう二度とあのように捕われることはなく、あの道に再び入ってゆくことも絶対にないと感じるかもしれません!私たちは、簡単にそのように思いこんでしまうものです。ああ、私たちの魂は、どれほど私たちを恥じ入らせるでしょうか!私たちは、自分の感覚、自分の意志、自分の考えの変わりやすさのために、どれほど恥を見てきたでしょうか。恥!恥!たくさんの恥!私たちの魂は、いつでも、私たちを笑いものにします。『彼を信じる者は恥を受けない。』パウロは、この魂から生じる心の動きが、キリストのところに来てはならないと述べています。そこでは、矛盾する言動が生じます。大切なのは、あなたが何者かということではなく、キリストとは何かということです。あなたがこのことを、見ることも、頭で理解することも、解決することもできないとき、あなたが何も感じることができず、何の感情も持てないとき、あるいは、それが非常に悪い感情であるとき――そこにあるのは、ただひとつの領域、私たち自身の姿です。そこにいるのはキリストではなく、このような時、私たちはこう言わなければなりません、『主よ、これは私の弱さです。私はこのようなものです。しかし、主であるあなたは、まったく違います。私は自分の持てる信仰を、私自身から、そして、ここにあるものから、あなたへと移します。』キリストこそが土台であり、そして、この土台の上に私たちが建てるものは、キリスト自身でなければなりません。主は土台であるだけではなく、建物全体のすべての部分でもあります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: