2020年4月3日金曜日

【Daily Open Windows】4月3日

四月三日

わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。(レビ記二十六・四)

花が落ちてしまうまで、実はつきません。花が散った後に来る季節は、夏であって、冬ではありません。もちろん、誰もが、その花がいちばん、きれいなときに見たいと思うでしょうし、夏のあいだずっと、花が咲いたままでいたら、どこか奇妙に感じるはずです。こう言いたくなるでしょう、『何かがおかしい、もう花は落ちている時季ではないか』と。近づいてよく見ると、その場所には確かに何かがあり、それは、約束に満ちて、はるかに大きな価値を持つものです。この咲きたての花は、いのちの兆候かもしれませんが、いのちそのものとは違います。新しいいのちの兆候は、春先に現れるものであり、それは冬が過ぎ去って、復活が始まっていることを示すものです。それは、兆候であって、いのちそのものではなく、それは霊的な幼年期とともに過ぎ去ってゆきます。初期に生じるこの熱情は、神との結びつきの本物の基礎にはなりませんが、私たちの中で何ごとかが起こったことを表す兆候ではあります。この熱情は私たち自身から出てくるもので、神から来るものではありません。神は、これとは別のものです。神は、全てを吹き払おうとはされません。主のいのちが働いており、それ自体をより強く、より深いかたちで表すことになります。・・・・しかし、もし、一方で、永遠のいのちが働いて、生まれたままのいのちから私たちを切り離し、それが私たちと神との関係の基本となるなら、他方では、そこで成されたのは、非の打ち所がないほどすばらしいことです。まさしく、『主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである』と言えます。主は、私たちの肉体にまで入り込んで、私たちが最善を尽くしてやっと可能となることよりもずっと多くのこと、明らかに今の可能性をはるかに超えることをさせます。主は、人間としての私たちが、最良の状態でさえ、まったく役に立たないことを知らせているのです。それを行うのは、主のいのちです。主のいのちは、ひとつの制度を力ずくで剥ぎ取り、別の制度を持ち込んで、その制度が拡がる道を開きます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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