2020年4月30日木曜日

【Daily Open Windows】4月30日

四月三十日

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ四・十三)

とどまるとは、どういうことでしょう?キリストのうちにとどまることは、これまでに何度も言ってきたように、私たち自身の中にとどまることの反対です。自分自身の中にとどまるとは、この生活、あの主への奉仕を、自分自身の力だけで行おうと試みること、それを行うことを助けてくださいと主にひたすら願うだけで、神を満足させた主のいのちが既に完成されたことも、信仰こそがキリストにある完成を助けることも認めようとしないことです。キリストのうちにとどまるとは、ただ単純に、何をするにしても、何を満たすにしても、それがキリストから生じるものとして行うということです。それは確実な土台です。そこで、『それができるだろうか?私にできるだろうか?』とか、『私には、はっきり分からない』などと自問したり、論じたりする必要はありません。それは、必ずできます。主イエス様は、あなたや私がこれから出会う全てのものに、すでに会われていますし、あらゆることにおいて、必要なことをなされたのです。主がなされたことを、信仰は用いることができまし、また、信仰はこう言います、『そう、私自身の中ではこのことは愚かなことだし、それを試みるのもばかげたことではある。私自身について言えば、じっくり考えるだけでも愚劣ということになるだろう。しかし、それは絶対に実現できる。なぜなら、すでに行われているからだ。私は、この要求を満たすことができるし、あの問題に対抗できる。苦しくても持ちこたえることもできるし、私にはあれもできる。――「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(この『どんなことでも』とは実に大きなことばです)。」』私たちの力、食物、滋養の隠れた源としてのキリストとは、まさしくこのようなものです。これは学校であり、私たちが前向きなかたちでこの授業を受けるところです。・・・


主の完全さに立ち返るためにはどうすればよいか、私たちは学ばなければならず、そのために、ひたすら前に向かって、一歩一歩、小さな子供のように、まずは歩くこと、話すことから、学び始めます。子供たちと同じく、私たちは、これまでに一度もしていないこと、しようと考えたことさえない、全く初めて出会う不思議なものと向かい合わなければなりません。それは、新しい世界、時には非常に恐ろしい世界です。小さな子供にとって、初めての第一歩を踏み出そうとするのは、何よりも恐ろしいことで、大きな決意が必要です。あなたと私は、この信仰の世界へと導かれてきましたが、この世界では、始まりにはとても単純なこと、初めの第一歩を踏み出すことが、時には、おそろしくてたまらないものです。しかし、そこには腕が差し伸べられており、この腕は今、私たちに求められていることの達成、すなわち、そのことが必ず成し遂げられることを象徴するものです。今、抱えている問題の解決のために必要な力は、既に備えられており、その強さも証明されています。その腕を認めて信じながら、そして、この一歩を踏み出しながら、私たちは、キリストによって歩くことと、キリストによって生きることを学びます。そして、次には、もう少し先へと進むことができるはずです。その度に、能力は拡がってゆき、私たちは、より完全な成熟の段階へと近づいてゆきます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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