2020年8月31日月曜日

【Daily Open Windows】8月31日

八月三十一日

愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ五・十三)

私たちの生きる道を塞ごうと、自己愛、世への愛を投げ込むのは、いつでも、神の敵の手段であり、積み上げられた残骸を取り除いて、キリストへの純粋な献身という井戸を掘り起こすには、厳しい決断が求められます。とは言え、この障害物は、私たちの仲間の信者たちへの愛の欠如からも、生まれるのではないでしょうか。覚えておいてください。もし、私たちが他の神の子供たちに対して愛のない思いを抱いていたら、ましてや、その気持ちを行動に移すようなことをしたら、御霊は私たちの中で、また、私たちを通して、思うとおりに動くことができません。御霊とは、交わりの霊ですから、これができなくなれば、私たちも愛の働きをすることができなくなります。

2020年8月30日日曜日

【Daily Open Windows】8月30日

八月三十日

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせてくださった。(コロサイ一・十九)

これを、ただのことばと捉えないでください。一片一片のことばの内に、この真理が込められていることを理解してください。すなわち、あなたと私が今、生きている摂理の中、神が完全なすがたで来られたということです。それ以上、付け加えることはありません。御子の内側には、神の絶対的な完全さが備わっており、そして、その完全さのもと、神は御子の中で、私たちに語りかけます。神には、この意味で、ただ一人の子供しかいません――神のひとり子であり、これは、主の後から来るものは誰もいないことを意味しています。ですから、神の最後のことばは、御子の中にあります。

2020年8月29日土曜日

【Daily Open Windows】8月29日

八月二十九日

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。(第二コリント十三・五)

新しい創造を作るものの総和がキリストの内にあり、別の言い方をすれば、人の外にあるのです。それは、人から離れたところにあり、これからも変わることはありません。新しい創造の総和たるキリストは私たちの中におられても、この新しい創造はキリストの中にとどまり、私たちは主と結びついていることによってのみ、その中にいられるのです。主は私たちの中で、完全さを表す象徴となりますが、その完全さを実行に移すとき、それは必ず、ただ純粋に、信仰という土台に基づいて行われます。どんな場合も、それが、私たちの中から生まれたと言ってしまうようになったら、その時、信仰は消え去ります。その完全さが私たちの中に既にあり、それが私たちの本質であったら、信仰などいらなくなります。その結果は、自分を繰り返すだけになってしまいます。・・・・

2020年8月28日金曜日

【Daily Open Windows】8月28日

八月二十八日

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネ五・三十九―四十)

ものの価値は、それが生きていることにあります。聖書の価値は、私たちが聖書を知っていること、聖書を使うことができ、そして、聖書を基にして演説、すばらしい呼びかけをすることができること、また、聖書から御言葉を完璧、かつ、正確に引用できること、こういったことの中にはありません。私たちが、キリストの同労者、キリスト者という名を担っていることではないし、この偉大な遺産と伝統を受け継いでいることでもありません。聖書の価値とは、それが生きていることにあり、これが、キリストのよみがえりのいのちが示すべきことを、あらゆる面で示しています。・・・・それは、力強いことばであり、きびしい言葉でもあります。キリスト者としての伝統があり、多くのキリスト者としての教えを受けてきたあなたは、おそらく、聖書をとてもよく知っており、または、自分ではよく知っていると思っていて、多分、自分が属する集団の中でも高い立場にいるかもしれませんが、ここで疑問が生じます。大切なのは、たくさんの教え、真実、聖書の知識、人との交流などを知っているとか、自分のものにしているということはないし、また、あなたが、たくさんの会合に参加して、こう言ったことをこれまで何年にも渡って聞いてきたことでも、あなたがそのことと深いつながりを持ってきたことでもありません。全く違います。このすべてを自分のものとしていてもなお、あなたには何か大切なものが欠けていて、この全体の中で不可欠な要素となることができないのです。あなたはまだ、通り過ぎていくものに過ぎず、おそらくは寄留者であって、その本当の価値を受けていません。率直にそのことを認めましょう。個人的な事柄として、この事実と向かい合わなければなりません。

2020年8月27日木曜日

【Daily Open Windows】8月27日

八月二十七日

ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、・・・彼女たちは驚いた。(マルコ十六・四~五)

主が御子のために動き、その願いがすべてを支配するとき、そして、その御子の願いが私たちを主との新しい関係へと導いて、動かせないほど大きな石、解決できないほど大きな問題、強すぎる困難など決してなく、主は御子のために必要なことをすべて成してくださると私たちに言わしめる――この境地に達したとき、主は静かに、多くを成し遂げることができます。私たちには、それはただ『起こる』ように見えます。ああ、しかし、そこでは、あまりにも大きな力が目的を持って用いられたのです――『すると、大きな地震が起こった』(マタイ二十八・二)。しかし、状況をあらためて見ると、これは、決して地震などではなかったことがわかります。ただ、書かれていることが起こったのです。主のなされることの一面として、奥義、主の巨大な力が静かに働いて、最大の困難が、あたかも初めから存在しなかったかのように消え去ってしまうことに気づかなければなりません。主は時には、私たちを大きな御力がはっきりと働いているただ中へ導くこともありますが、そのようなことは多くはなく、実はそうではないことの方が多いのです。信仰についてはむしろ、障害物をひそかに取り除いてくれるような力が働いており、私たちは後で気が付いて、感嘆することになります、――『それで、彼女たちは驚いた。』そして、御使いは言いました、『驚いてはいけません。』驚きがあるのは良いことではありますが、驚きの中には、私たちの信仰が十分でないために起こるものもあることを、心にとめておきましょう。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年8月26日水曜日

【Daily Open Windows】8月26日

八月二十六日

主であるわたしは変わることがない。(マラキ三・六)

古い契約と新しい契約のあいだには実に大きな違いがありますが、その違いは神の中にはありません。新しい契約においても、神は何も変わってはいません。主イエス様の仲介を通して私たちのもとに届けられたこの契約は、それまでと違う神を私たちにもたらしたのではありません。違いは神の中にはなく、すなわち、神の性質と神の標準はいつも同じであって、変わってはいません。恵みは、神を低い水準まで引きおろすことは決してしません。恵みは、神の聖さ、神の正しさに違いを生むものではありません。ふたつの契約のあいだの違いは、神の側の変化ではありません。神の立たれる場所は、これまでそうであったように、聖さにおいて完璧であり、正しさにおいて完璧です。その違いとは、第一に、仲介者たちにあり、第二に、その仲介者たちが立つ土台にあります。・・・・

2020年8月25日火曜日

【Daily Open Windows】8月25日

八月二十五日

被造物が虚無に服したのが自分の意志ではないからです。(ローマ八・二十)

ひとつの文章が、私たちの心にあるものを見せる窓となるような、そんな表題を探している中で、もっとも力強く思えたものがこれでした、『地に落ちることの呪い。』最初の三つの単語(地に落ちること)の意味を理解することで、歴史というものが霊的、また、時間的に、どれだけ膨大なものであるかが説き明かされます。・・・・呪いの性質と特徴とは、聖書のいたるところに示されているように、挫折、妨害、当惑、不満、失敗、混乱、苦悩、衰弱、そして、絶望と死に対する勝ち目のない苦闘です。・・・・神の目的のために大いに仕えたものの多くが、やがては地に落ちて、崩れ去り、過去の栄光にすがって生きることになるのは、いったい何故なのでしょうか?そのようなことにならないように、主が手を貸してくれず、御自身が用いた道具や器たちを無傷のまま守ってくださらなかったのは、いったい何故なのでしょうか?聖書の真実に徹底的に従うことに強く心を砕いてきた多くの者たちの間に、際限なく、分裂に次ぐ分裂が起こるのは何故でしょうか?このような多くの疑問に対して、答えはただひとつしかありません。その答えとは、地上に落ちたからです。

2020年8月24日月曜日

【Daily Open Windows】8月24日

八月二十四日

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ三・三、四)

私たちは、自分の中にある主のいのちは、どこかを改善したり、何かを付け足す必要があるなどと考えてしまうことが、非常によくありますが、本当に求められているのは、自分が持っているものを見つけること、経験によって見つけたら、それに従って生きることです。このいのちは、主イエス様から離れたものではなく、決して、主の地位に何か改善の必要があるとか、また、今の主に何かを加えて主を完全に、今よりも完全にできる可能性があるなどと考えてはいけません。私たちは、絶対にそのようには考えません。そして、この主のいのちは、主ご自身とともにあるいのちです。この使徒が言うように、私たちのいのちとはキリストであり、私たちに必要なのは、自分の中のキリストとは何かを見いだし、それに従って生きることです。ですから、現実的な意味では、主のいのちが私たちをより多く捕らえることが問題であって、私たちが主のいのちをより多く受けることではないのです。あらゆる面で、いのちはこのように働きます。

2020年8月23日日曜日

【Daily Open Windows】8月23日


八月二十三日

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものかを、・・・・あなたがたが知ることができますように。(エペソ一・十八)

ここで見えるようにと言うのは、全時間、全宇宙の秩序の中にあって、イエスの存在がどれだけ大きいかということです。使徒たちに、それが見えるようになったのは、実際に主が昇天された日より後のことでした。主の復活に続く四十日間は、新しい一日の夜明けのようでした。最初に、ぼんやり明るい空が、天の上から照らす光を暗示します。それから、より強く、はっきりした光線がペンテコステの日まで続いてゆき、その日、栄光に満ちた太陽が地平線から姿を現して、不確かなものの影を跡形もなく吹き消しました。その日、使徒たちは天が開いて、主が現れるのを見たのです。これまでの謎はすべて解けました。聖書は、新しい本のように開かれています。彼らは、永遠の光の中に主を見ました。主は栄光に満ち、人の姿を取った神の御子ではありますが、その主ご自身が、偉大で壮大な、天と霊の秩序と制度を体現していることに、弟子たちは気づき始めました。それまで、どこにもなかった見方でした。この新しい見方は、そこから新しい世界、新しい創造が生まれるほど大きな転換点だったのです。この根本的な原理が示すように、パウロから生まれ、パウロを通して、何世紀にもわたって伝えられることになるこの壮大な啓示は、彼が、『(神は)御子を私のうちに啓示することをよしとされた』(ガラテヤ一・十六)と記したこの転換点から生じたものでした。『私はそれを・・・・イエス・キリストの啓示によって受けたのです』(十二節)。すべてが、この大転換のうちに暗示されていました。実際に、その中にあったのは、全く新しく、常に成長し続ける啓示でした。

2020年8月22日土曜日

【Daily Open Windows】8月22日

八月二十二日

自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。(ダニエル十一・三十二)

主の十字架の後、この十字架によって主との絶対的な一致へと導かれた人々を通して、満ち満ちた神の力のすべてが世界へと解き放たれました。これは、実に不思議な知識であって、この世界という巨大な制度が知らない力と強さが、この世の状況の上に解放されたことを意味しています。第一に、神についてのこの知識は、啓示によるものであることを覚えておきましょう。

2020年8月21日金曜日

【Daily Open Windows】8月21日

八月二十一日

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ十五・四)

神は、世の始まりから、キリストにあって、私たちを選びました。神は、ただ一人の方を選び、私たちがその中に神を見出すように、その方の中にだけ神を見出すようにされました。私たちをキリストから引き離すことを第一の目的として、地獄の軍勢が働き始めます。彼らは人々をキリストのもとに行かせまいと荒れ狂い、いったん、人がキリストのもとに入ると、キリストの支配の外に引きずり出して、何かこの世の物、他の者の支配のもとに置こうと、止むことなく、容赦なく、攻め続けます。キリストの、『わたしにとどまりなさい。・・・あなたがたも、わたしにとどまっていなければ・・・』(ヨハネ十五・四)という言葉には、計り知れないほど大きな意味が込められています。これは警告であり、命令のことばでもあります。私たちは、どこで、どのように主で出会うでしょう?それは、キリストへとつながる道筋の上だけであり、そこは、キリストの願いが私たちの生きる目的となり、『私にとっては、生きることはキリスト』(ピリピ一・二十一)というみことばが真実となるところです。あなたは、そこで、主と出会います。キリストの支配の外に抜け出したり、追い払われたり、おびき出されたりすれば、あなたは主を失います。キリスト者の人生が解き明かされるのは、その支配の中に限られます。私たちが造られたその目的が完成するのは、その道の上です。神の導きを見出すことができるのも、同じ道筋の上です。

2020年8月20日木曜日

【Daily Open Windows】8月20日

八月二十日

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ二・五~七)

私たちは、『主のため』と考えて多くのことを行い、あちこち飛び回って忙しくしたり、会合や勉強会を計画、主催して、そこで語り、説教し、また、参加するといったことの中に明確な線を引いて、『キリスト者の奉仕』と呼ぶものを区別しなければなりません。こういったことと、主への真の奉仕のあいだに、はっきりした境界を定めて、違いを明らかにする必要があるのです。本物の主へ奉仕とは、主のために人々をこの世から解き放つこと、また、その人々を天の召命のためにキリストに従って整えることであり、その天の召命とは、後ではなく、今、従うべきものです。自分の奉仕を試すすべとなるのは、あなたの手の下に集う人たちがどれだけ解放されるか、そして、今、どれだけキリストがかたち作られているかという計りです。これこそが奉仕というべきものです。そして、その一方で、さまざまな運動や活動、熱心に夢中になって行う働きに励んでも、そこではこの種類の忍耐があまり求められないことに、あなたは気づくでしょう。本当に自分を無にすることを求められたりしないし、また、どこまでも柔和であることも要求されません。むしろ、このような行動は、人を反対の方向へ向かわせると私は思います。それは、私たちを自己中心的にします。自分を誇らせます。私たちを自己満足させます。自分を主張させます。自分の立場や役割のことで妬む気持ちを持つようになり、また、人から干渉されると気分を害します。そう、キリスト者の働きでは、そんなことがよくあるのです。真の奉仕であるかどうかは、こういったことで試され、また、主の真のしもべであることは、キリストの美徳の計り、すなわち、完全に自分を無にし、自分を空にしているかということで試されます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年8月19日水曜日

【Daily Open Windows】8月19日

八月十九日

わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。・・・(黙示録 二・十九、二十)

ああ、私たちは主への奉仕とは何かということについて、、演台や説教台や野外での会合のことと考えるだけではなく、よりよく理解すべきです。愛する皆さん、主に対する奉仕とは、日常生活のありふれた家庭的な出来事の中で、ひどく気落ちしている神の子供に親切に助けの手を差し伸べるといったことも、同じくらい大切であり、その面では演台の上で説教を語ることと同じくらい大きな価値があるのです。お分かりのように、この奉仕は、主の子供たちの手を強めて、上からのしかかって圧し潰そうとする敵を見極め、生活や家庭の中で行われる証しを引き上げて、その証しを打ち砕こうと試みる敵から守っています――この証しとは、家庭内の関係、家族の生活、個人的な生活の中で続けられるものです。

2020年8月18日火曜日

【Daily Open Windows】8月18日

八月十八日

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ三・三)

実のところ、神が望んでおられるのは、あなたや私のために何かをすることではなく、あなたや私に何かを分け与えることではなく、あなたや私に何かを見せることでもなく、私たちを導いて、キリストの中で神をよりよく理解させることにあります。すべては、結局、神との個人的な関わりなのです。それは、このただ一人のお方を認めることであり、それによって起こるもっとも大切で、かけがえがなく、そして、永遠のものとは、何かをすることや、行動を起こすこと、真実を喜ぶことでなく、礼拝することです。

2020年8月17日月曜日

【Daily Open Windows】8月17日

八月十七日

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ三・十~十一)

主イエス様の死に新しい計りでふれるためには、その死を、主のよみがえりのいのちという新しい計りで知ることが必要です。主イエス様が、御霊によって、ご自身の死のより深い意味へと私たちを導かれるとき、その死自体が復活のいのちという新しい計りであることを、私たちもきっぱりと受け入れましょう。この二つは、両方がひとつになって働くものであり、他のかたちはあり得ません。それは、主のいのちに向かう死です。利益を得るための損失です。主のいのちと利益は、死と損失とは、まったく違う種類のものです。どんなものであろうと、死と損失は、遅かれ早かれ、消えていくものに過ぎず、目の前にあるときも、その価値は全く疑わしいものであるのに対し、主のいのちと利益は永遠であり、その中に、神の全ての価値があります。

2020年8月16日日曜日

【Daily Open Windows】8月16日

八月十六日

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ二・九、十)

ああ、私たちの耳には、こんなふうにほのめかすささやき声が絶えることなく聞こえてきます。あれやこれをやめてしまえば、私たちは敗北し、人生は貧しいものになり、生活は次第に狭められて行って、いずれ何も残らなくなるだろうと。嘘です!これは、神が私たちに抱いている大きな考えに相反するものです。神の私たちに対する考えとは、このお方、神の御子イエス・キリストただ一人、その中に神の満ち満ちたご性質が人のかたちをとって宿っておられるこの方が、私たちの中にも満ちていなければならないということです。神の満ち満ちたご性質が、私たちのためにキリストの中に!主を拒んだら、それを受けることはできません。どこへ行くにも主とともに進んでいなければ、人生は、本来あるべき姿よりずっと小さくなってしまうはずです。そして、主に自分を捧げ、生活の中で主に対して自分の全てを完全に捨て去り、主から来ていないものを完全に断ち切ることで得られるものがあり、それは奉仕という領域で得られます。

2020年8月15日土曜日

【Daily Open Windows】8月15日

八月十五日

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(第一コリント一・九)

現代は、安さが求められる時代です。なんでも、最小限の費用と手間で、できる限り、安く、早く、手に入れよう。『すばやく手に入れよう。簡単に手に入れよう。』この考えが、世界のすみずみまで支配しています。今では、あらゆることを、手軽に片づけ、手早く行うことがよしとされています。台所でも、急いで歩くときも、家事をする中でも、世界のどこを見ても同じです。この世的に正しいことが、今では、霊的にもおおむね、正しいことにされています。生活の基準は、恐ろしいほど低くなっています。大きいことが、偉大であることに、取って代わりました。偉大さ、言葉の本当の意味には、もはや、重きを置かれません。ああ、誰もがこんなふうに語っています、『大きい、そうとも、大きければよし、それが間違いなく、いちばん良いことだ。』しかし、これは、聖書の教え、福音とは完全に真逆の考え方です。今の世は、このようになっているのです。簡単でたやすいこと、気軽さ、あでやかさ、興奮、感情といったものが、私たちの日常をつかさどる秩序です。このような急ぎ足の生活が、いたるところで、キリスト信仰の中へ入り込んできています。その結果、実に貧しいキリスト者が生まれているのです。・・・・

2020年8月14日金曜日

【Daily Open Windows】8月14日

八月十四日

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ六・十四)

あなたは、モーセの律法のもとに生きるのと同じように、キリスト教の法に生きることもできますし、また、人々がユダヤ教に縛られていたように、キリスト教にあっても束縛を受けることもあります。キリスト教は、かつてのモーセの律法と同じくらい強制的な制度に変えられてしまう可能性を持っており、今日も、たくさんのキリスト教徒が、キリスト者の生活を縛る律法的な概念である『あなたはしなければならない』と『あなたはしてはならない』という恐怖の下に生きています。聖書を神から与えられた生き方の基準と受けとめて、それを満たそうと試みれば、あなたは常に、自分にはできなかったという気持ちを負い続けることになります。それは神の基準であり、全てを網羅する基準であるため、現実のあらゆる部分に入り込んできますが、この基準に即して生きようと試みれば、必ず幻滅に終わります。いや、私たちが生きる上で目を向けるべきなのは、神が書いた本ではなく、ひとつの人格であり、それは、まさしくこの基準に従って生き抜くことによって、あらゆる細かい命令に至るまで、完璧なまでに実現し、神を完全に満足させた、主という人格です。ご自身の死によって、主は、律法の命令という束縛から、私たちを解放してくれました。この同じ人格が、今では、御霊によって私たちの中に住まい、外から人を束縛する命令に拠るのではなく、内側に宿る生きた力として、神の完全なみ心を実現しようと務めています。私たちには、心に書き付けられた法があります。キリストにあるということは、主のいのちの問題であって、律法に従うということではないのです。

2020年8月13日木曜日

【Daily Open Windows】8月13日

八月十三日

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ二・二十)

キリストとは、私たちを頑強なものとし、活力を与え、強めるために送り込まれ、生活と奉仕の中で用いたり、また、私たちを価値のある者にするために与えられる第二の人格や力ではありません。そのような考え方は正しくないし、聖書にはそのような観点はありません。それでもなお、ほとんど全ての人が、多くはおそらく無意識のうちに、この考え方を受け入れています。キリスト者たちは、キリスト者としてさえ、自分を何者かに変えて欲しいと願っており、そして、キリスト者の働き手と主のしもべたちは、おそらく知らず知らずのうちではありますが、立派な働き手になることを願っています。そして、彼らは、キリストに自分を強めていただき、後ろから支えてもらって、主のしもべとして、主への奉仕の中で、大きなものにしてもらうことを望んでいます。

2020年8月12日水曜日

【Daily Open Windows】8月12日

八月十二日

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ一・三)

このことばや思いを、私たちはもう何度も聞いていますが、それでもなお、ここに書かれた事実を日々、新鮮な気持ちで、新たに喜ぶことは、誰にでも可能なのです。・・・・この真実を繰り返してことばに出してみたとき、そこに、新たな光と栄えの輝きを覚えることがなければ、私たちは、すべてを差し置いても、自分の何が悪かったのかを主に尋ね、心を静めて、じっくりとそのことを考え直してみるべきです。さて、それは、私たちのキリスト、私たちの経験のキリスト、私たちの知識のキリストなのでしょうか?私たちはそれを実感しながら生きているのでしょうか?その全ては見えなくても――その豊かさをすべて知ることなどできません――目の前に広がる豊かさを覚えながら生きているでしょうか?乳と蜜の流れる地、それは本当に良い土地です。

2020年8月11日火曜日

【Daily Open Windows】8月11日

八月十一日

その主権は増し加わり、その平和は限りない(イザヤ九・七)

人間、世界と宇宙の創造という神の目的が実現されたその全ての目的は、キリストの中で神を知るということにあり、これは、もちろん、キリストを知ることを意味しています。神の御心、神の道、神の目的のあらゆる側面と細部は、主イエス様を知ることにつながります。人間の進歩とは全て、人生のあらゆる面で、このこと――主を知るということ――にかかっています。地上でのキリスト者としての生活は、絶え間ない成長と拡がりと前進の生活となるよう意図されていますが、実際にそのようになるのは、私たちが主イエス様の願いをよりよく知り、常に理解し続けていく場合に限られます。

2020年8月10日月曜日

【Daily Open Windows】8月10日

八月十日

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。(マタイ二十四・一)

これを読んで、どのような印象を持ちますか?主イエス様を観光旅行に連れ出して、宮の建物を見せようとしている弟子たち!これが、弟子たちの目が向けられているもの、弟子たちが大切だと考えているもの、人に感銘を与え、価値があり、偉大で、そして、高貴であるとは、こういうことだと弟子たちが信じているものです。・・・これに続くマタイ伝二十四章を通して伝えられていることをご存知でしょう。この世的な偉大さについての考え方と基準からすれば、また、宗教的な世界の標準に即しても、物質的で現世的とみなされるものが、主と過ごした年月の後も、この弟子たちの思いを支配していることに、私たちは気づきます。ここには、深く根を下ろし、凝り固まって、彼らの心から離れない何かがあります。

2020年8月9日日曜日

【Daily Open Windows】8月9日

八月九日

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ三・八)

人を罪、死と地獄から救うこと、そして、人を天国へと連れて行くことは、信じる者の特別さについて、パウロがここで気づいたものに比べたら、大したことではなかったのです。キリストに関して、主の永遠のご目的――永遠で、普遍的、広大で無限の目的――の中でパウロが気付いたことは、そのすべてが今の信者たちにも関わっています、『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、・・・次に来る世においても、・・・神の栄光をほめたたえる者・・・にしようとされました(エペソ一章四、十二、二十一節)』。信者たちはまた、時間のくびきから解き放たれ、ともに、あらゆるものにまさる大きな価値を与えられました。

2020年8月8日土曜日

【Daily Open Windows】8月8日

八月八日

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(第二コリント十一・三)

欺きとは、からだの外側から、いやおうなしに、あるいは、自分では気づかないうちに、圧し掛かってくるものではありません。全ての欺きは、その土台が人の中にあります。その土台とは何でしょう?人間とは、今、心霊的な存在であることは事実です。さて、あなたも、この事実の根底まで理解し、全てを把握すれば、全体像が見えてくると思います。その全ての土台とは、すなわち、人間が心霊的な存在であること、そして、サタンが始めに人間に干渉し、自分のたましいに即して生きている人間がその干渉を受け入れたとき、サタンは、自分が支配しやすいように人間を変えてしまったという事実にあります。サタンが現れて、自分を人間の支配者として定め、力に任せて、人間を自分に服従させたのではありません。では、どうやったのでしょう?それは、人間の存在の中で、神とつながっている領域、すなわち、霊という領域に侵入したのです。『主と交われば、一つ霊となる』とありますが、人が、神との交わりとつながりの中にいたのは、たましいや肉体ではなく、霊を通してだったのです。人のたましいと肉体は、霊の支配下にあります。敵である欺く者は、人のたましいに入り込み、そして、その時、人は、神との霊にある交わり、そして、神の知識に拠ってこの敵に対峙することをせず、たましいの部分まで落ち、霊の外に出て、たましいにおいてこの敵と向かい合ってしまいました。

2020年8月7日金曜日

【Daily Open Windows】8月7日

八月七日

ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・・・一心に走っているのです。(ピリピ三・十三、十四)

主は、私たちが前に進むことを望んでいます。時には、他の誰も自分と一緒に来てくれないところに進むために、前進することが孤独につながることがあります。これが意味するのは、従順には代償が伴うということです。これは時に、大きな挫折、大きな変化を意味します。このとき、私たちが主の前に自分を変えられるかということが試されています。自分を変えることができれば、それは、主に自分のすべてを捧げているという証明になります。その証明があれば、主はご自身の思いの中に、私たちを導き入れることができます。地上にいるあいだ、私たちは、これ以上、高い水準はなく、これ以上、豊かにキリストが満ち溢れることもないという状態に達することなど、絶対にありえないといつも覚えておきましょう。いつでも、さらなる次の段階があり、その後にも、おそらく別の一歩があり、より高いところへと続いてゆきます。私たちは、そのすべての段階に達することに心を向けましょう。主は、この苦難があまりに厳し過ぎるものとならないように、ものごとを段階的に進めてくれます。主は、私たちを一度に一段ずつ前に進め、私たちが、一足で六段階を飛び越えたり、一度の六歩分を進もうと考えることは望んでいません。主は、次の一段階を示され、私たちはそこでは、その一段だけに心を傾けるべきです。他の段階は、適切なときにやってきます。一歩一歩が、私たちを次の歩みに向けて整えてくれます。

2020年8月6日木曜日

【Daily Open Windows】8月6日

八月六日

あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み。(コロサイ一・二十七)

これは、何を意味しているのでしょう?神の前に出て、こんなふうに言うことではありません、『私は、純粋な動機を持ち続けてきました。私はいつも、とても正直で、熱心で誠実であったし、私の意図は、いつもすべてが最善のものでした。』意味のないことを語るのはやめましょう。こんな言い方をするのは、まったく愚かなことです。私たちは自分自身を知りません。神だけが、私たちの本当の姿を知っておられ、その中に、神とともにあるもの、神に取って値打ちのあるものなど、何ひとつありません。大切なのは、主イエス様の十字架が、よくも悪くも、私を圧し潰し、私を終わらせるものであったことに気づいて、主の前に全てをさらけ出しているだろうかということです。私は、神が創造されたあらゆる存在と同じように、最悪のことを行う可能性を持ったものです。誰であれ、自分が最悪のことをすることなどあり得ないという態度を取れば、それ自体が、何よりも深い欺瞞に満ちた態度ということになります。私たちは、自分の存在の中にある力の大きさを、実際にその力と向かいあうまで知らずにいます。私たちが、最悪の間違いを犯したことがなければ、それはまだ、神の憐れみの中でその経験を通されていないというだけで、それは必ず、目の前にあります。主は、原則として、その過ちをはっきりと指し示した上で言われます、『兄弟を憎む者はみな、人殺しです』と。これは、同じ精神です。あなたも、ただ、感情を高ぶらせて、この怒りを十分にかきたて、この性質をある段階まで追いやることをすれば、以前の自分なら恐怖で立ち尽くしていたようなことも、今は平気でできることに気付くでしょう。

2020年8月5日水曜日

【Daily Open Windows】8月5日

八月五日

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・、あなたがたが知ることができますように。(エペソ一・十七~十九)

そして、この後には、知るべきことの一覧が挙げられています。この一覧は、人知を越えた大きな愛の次元へと進んでいきます、『・・・こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』霊的な輝きが、この満ち満ちたさまへと人を導いてゆきます。霊的な輝きとは、従って、神の側にあって人を導く基本です。自分の頭脳に頼って、霊的なことがらを探求、調査するだけでは、決して、キリストの満ち満ちたさまに達することはできません。そこには、必然的に、聖霊がいて、キリストに関する啓示を与えなければなりません。イエス様の証しには、基本的な原則として、霊的な輝きと啓示が――みことばを通して――含まれています。イエス様の証しは、定まったかたちがあるわけではなく、何かひとつを取り上げて、『これがイエス様の証しです』と、形式にあてはめられるようなものではないのです。イエス様の証しとは、上から示されたものです。

2020年8月4日火曜日

【Daily Open Windows】8月4日

八月四日

よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。(第二ペテロ三・十七)

使徒行伝の中で記されているように、始まりの日々には高いところにあった教会は、その後、衰退し始めました。使徒たちの時代が終わった後から、衰退が確実に進んでいることが分かりますが、この衰退は着実に進んで、教会は公的に、また、一般的にも世に属するものとなり、ついには政治的に地上と癒着したものとなってゆきます。あらゆる年代を通して繰り広げられてきたのは、この教会がその天的に高い位置を失い続けるのか、それとも、取り戻すのか、あるいは、どのような理由であれ、繁栄や逆境によって、もっと低い何かを受け入れるのかという戦いでした。その歴史全体を通して、真実であり、これまで真実であり続けたものは、今日も真実であり、私たちにとっても真実です。これは、全体に対して真実であるように、信者の一人一人に対しても真実です――すなわち、低いところへ落ちていく傾向があります。そして、敵の側から来るものは全てが、神の意図よりも低い水準、すなわち、主がご自身を完全に捧げられる水準よりも低いものを作り出そうとしています。民に対して主が立つ場所が保たれていて初めて、主はご自身を捧げることができます。

2020年8月3日月曜日

【Daily Open Windows】8月3日

八月三日

幻がなければ、民はほしいままにふるまう。(箴言二十九・十八)

教会の現状について、少しでも知っていれば、教会には神のことばを伝えてくれる人が悲劇的なほど不足しているという意見に反対はしないでしょうが、しかし、大切な点は、その時々に伝えられるべき神のことばは何かという知識こそが必要とされていることです。そこで伝えられることばは、神から、その目的のために選ばれた人たちへと伝えられなければなりません。これは、取り上げられてもいい務めではありません。普通は、そのような責務が与えられるまでには、神と共に歩んだ長く深い人生の歴史、神秘と苦しみに満ちた歴史があります。その過程で多くの段階を経るわけですが、そのすべてが、神の御心の中で許され、あるいは、神が下される命令の中にあり、人を教育し、経験を与えることを目的としているとは言え、その道筋は決して、既に完成して、定まったものではなくて、大きな変化が求められることもあり、その変化のたびに新たな霊的な危機が訪れます。このような器を作るにあたって、人にできることは何一つなく、どれだけ強い関心を寄せても同じことです。これは、ただ神だけにできる仕事であり、器は神の手にゆだねられなければなりません。・・・

2020年8月2日日曜日

【Daily Open Windows】8月2日

八月二日

また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。(第一テサロニケ三・十二)

自分と同じ集まりにいる仲間を愛することは、そう難しくないかもしれません。しかし、ここには、『すべての人に対する』ということばが加えられています。これは、ずっと深いことです。私は近ごろ、このよく知られたみ言葉が持つ力を、これまでになかったほど、深く、また、強く感じるようになってきました――『知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます』(第一コリント八・一)、そして、他のことば、たとえば、『からだ全体は、成長して、愛のうちに建てられる』(エペソ四・十六)も同じです。他の人の中にあるもの、また、自分と相容れないキリスト者たちやキリスト者の働きと活動が持つさまざまな要素の影響を受け始めると、私たちは、心を閉ざして、自分の中に引きこもり、互いに助け合ったり、教えあうことを通して何かを行うこともできなくなります。何度も繰り返して、非常に現実的な質問が湧き上がってきます――あの人の中には、こんなことや、あんなことがあるのに、この状態でできることはあるだろうか、何かが可能なのだろうか?これまで何度も、私たちは、表に現れてくる多くのことをはっきりと意識しては、それに抗ってきました。それから、主のところに行き、主とともに、そのことと向かい合う中で、私たちは前に進むことができるようになったのですが、そこで何かが起こって、主の働きかけがあり、私たちは、そのことに驚き、また、自分の側から不満を持ったことを戒められました。私たちは、この全てをしっかりと見抜き、また、主は心を見ることを常に、胸に刻んでおかなければなりません。私たちの目の前には、おもに無知、適切な教えの欠如などから生じたものがたくさんあって、そのことで、怒りを覚えることもあります。しかし、主は心を見ます。主が見るのは、このように心の表側を広く覆っているものの奥に何かが隠されていないか、ご自身に対する本物の心の愛があるかということであり、そこで、その愛を表現しようと真剣に努めているのかということも、主はご存知です。

2020年8月1日土曜日

【Daily Open Windows】8月1日

八月一日

主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記三十一・八)

もし私たちが、どこまでも神とともに歩み、真のキリスト者の生活と一般に受けとめられている範囲を超えても進み続けたければ、また、霊的な生活や神への奉仕を、さらに前進させる道を切り開く働きへと召されたら、そして、もし、神を信じる人たちの大部分にはまだ見えていない――大部分の神のしもべたちでさえ見たことがない――神の御心と目的の全体像が私たちに示されたら、そこから、私たちが進む道は孤独なものとなるでしょう。私たちが孤独を味わう道は、他にもいろいろなあります。この孤独は、地理的な理由であったり、あるいは、私たちが今、通らされている内的な経験から起こされることもあります。これは、ほかの誰とも、もっとも身近にいる者であっても、分かち合うことのできない経験であり、段階です。これだけではなく、他にも数多くの要因が、私たちにとって個別の『荒れ野』となって、そこにサタンが入り込み、そして、そこで様々なことが起こされますが、サタンの目論見とは、物事を不真実が渦巻く特別な領域へと追いやって、私たちが現実の中で完全に孤独であると聞かせることです。サタンが、神の子供に向かって、神が自分を見捨てたと思い込ませようとすることは稀ではありません。