2020年8月14日金曜日

【Daily Open Windows】8月14日

八月十四日

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ六・十四)

あなたは、モーセの律法のもとに生きるのと同じように、キリスト教の法に生きることもできますし、また、人々がユダヤ教に縛られていたように、キリスト教にあっても束縛を受けることもあります。キリスト教は、かつてのモーセの律法と同じくらい強制的な制度に変えられてしまう可能性を持っており、今日も、たくさんのキリスト教徒が、キリスト者の生活を縛る律法的な概念である『あなたはしなければならない』と『あなたはしてはならない』という恐怖の下に生きています。聖書を神から与えられた生き方の基準と受けとめて、それを満たそうと試みれば、あなたは常に、自分にはできなかったという気持ちを負い続けることになります。それは神の基準であり、全てを網羅する基準であるため、現実のあらゆる部分に入り込んできますが、この基準に即して生きようと試みれば、必ず幻滅に終わります。いや、私たちが生きる上で目を向けるべきなのは、神が書いた本ではなく、ひとつの人格であり、それは、まさしくこの基準に従って生き抜くことによって、あらゆる細かい命令に至るまで、完璧なまでに実現し、神を完全に満足させた、主という人格です。ご自身の死によって、主は、律法の命令という束縛から、私たちを解放してくれました。この同じ人格が、今では、御霊によって私たちの中に住まい、外から人を束縛する命令に拠るのではなく、内側に宿る生きた力として、神の完全なみ心を実現しようと務めています。私たちには、心に書き付けられた法があります。キリストにあるということは、主のいのちの問題であって、律法に従うということではないのです。


キリスト、そして、十字架に付けられたキリストは、罪から、肉から、律法から、そして、世からの解放をもたらす神の力です。『このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。』(ガラテヤ六・十四)。パウロは、この世で多くを享受しながらも明白な良心を保っていたことを誇っていたのではなく、自分が世から解放されたことを熱心に語っていたのです。信じる者たちがこの世に留まることができるただひとつの道は、自分たちがもはや世には属していないと知ることです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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