2020年8月20日木曜日

【Daily Open Windows】8月20日

八月二十日

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ二・五~七)

私たちは、『主のため』と考えて多くのことを行い、あちこち飛び回って忙しくしたり、会合や勉強会を計画、主催して、そこで語り、説教し、また、参加するといったことの中に明確な線を引いて、『キリスト者の奉仕』と呼ぶものを区別しなければなりません。こういったことと、主への真の奉仕のあいだに、はっきりした境界を定めて、違いを明らかにする必要があるのです。本物の主へ奉仕とは、主のために人々をこの世から解き放つこと、また、その人々を天の召命のためにキリストに従って整えることであり、その天の召命とは、後ではなく、今、従うべきものです。自分の奉仕を試すすべとなるのは、あなたの手の下に集う人たちがどれだけ解放されるか、そして、今、どれだけキリストがかたち作られているかという計りです。これこそが奉仕というべきものです。そして、その一方で、さまざまな運動や活動、熱心に夢中になって行う働きに励んでも、そこではこの種類の忍耐があまり求められないことに、あなたは気づくでしょう。本当に自分を無にすることを求められたりしないし、また、どこまでも柔和であることも要求されません。むしろ、このような行動は、人を反対の方向へ向かわせると私は思います。それは、私たちを自己中心的にします。自分を誇らせます。私たちを自己満足させます。自分を主張させます。自分の立場や役割のことで妬む気持ちを持つようになり、また、人から干渉されると気分を害します。そう、キリスト者の働きでは、そんなことがよくあるのです。真の奉仕であるかどうかは、こういったことで試され、また、主の真のしもべであることは、キリストの美徳の計り、すなわち、完全に自分を無にし、自分を空にしているかということで試されます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: