2020年8月10日月曜日

【Daily Open Windows】8月10日

八月十日

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。(マタイ二十四・一)

これを読んで、どのような印象を持ちますか?主イエス様を観光旅行に連れ出して、宮の建物を見せようとしている弟子たち!これが、弟子たちの目が向けられているもの、弟子たちが大切だと考えているもの、人に感銘を与え、価値があり、偉大で、そして、高貴であるとは、こういうことだと弟子たちが信じているものです。・・・これに続くマタイ伝二十四章を通して伝えられていることをご存知でしょう。この世的な偉大さについての考え方と基準からすれば、また、宗教的な世界の標準に即しても、物質的で現世的とみなされるものが、主と過ごした年月の後も、この弟子たちの思いを支配していることに、私たちは気づきます。ここには、深く根を下ろし、凝り固まって、彼らの心から離れない何かがあります。


私たちは、彼らを裁いているのではなく、彼らと同じような者なのです。自分がどれだけ霊的であると考えていようと、私たちが現世的な基準に強く影響されているという事実は変わりません。この世のものがどれほど人の道をふさいでいるか、また、偉大な宗教的な指導者たち、私たちの時代の福音的指導者たちが何を重要とみなすかということは、絶え間なく続く戦場のようなものです。それは、私たちに非常に大きな影響を及ぼします。

主は、このことについて、ご自身のお考えをはっきりと表明されます。すなわち、この全ては、完全に崩壊されることになります。そして、主がこのすべての問いを取り上げるのは山の上のことであり、あなた方はある事実から――そのことに関わりのある人たちがその事実を切り刻もうとも――逃れることはできません。その事実とは、この章の少なくとも初めの部分は、エルサレムについて語っていて、そこから分かることは、エルサレムが破壊され、土台にいたるまで揺るがされ、足元まで崩れ落ちようとしているということです。どこまでも偉大で、いつまでも続くと、彼らが思い込んでいたものが全て、消え去ろうとしています。その場所にどっしりと構えて動かないと考えられていたのに、石一つ残されそうにありません。垂訓の山で、主は、ひとつのものが崩壊し、他のものが生まれる場所を作ることを示し始めます。あの山の上で、天が地にふれ、そこから、天の摂理がはっきりと見えています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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