2020年8月17日月曜日

【Daily Open Windows】8月17日

八月十七日

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ三・十~十一)

主イエス様の死に新しい計りでふれるためには、その死を、主のよみがえりのいのちという新しい計りで知ることが必要です。主イエス様が、御霊によって、ご自身の死のより深い意味へと私たちを導かれるとき、その死自体が復活のいのちという新しい計りであることを、私たちもきっぱりと受け入れましょう。この二つは、両方がひとつになって働くものであり、他のかたちはあり得ません。それは、主のいのちに向かう死です。利益を得るための損失です。主のいのちと利益は、死と損失とは、まったく違う種類のものです。どんなものであろうと、死と損失は、遅かれ早かれ、消えていくものに過ぎず、目の前にあるときも、その価値は全く疑わしいものであるのに対し、主のいのちと利益は永遠であり、その中に、神の全ての価値があります。


だからこそパウロは、自分がキリストの死と同じ状態になっていることを、喜びの心をもって讃えたのです。パウロは、すべてを失うかのような悲しみに満ちたことばで、キリストの死を語ってはいません。キリストの死と同じ状態になっていることを告げるとき、パウロの顔に陰りは全くなく、その声に嘆きはありません。そこにあるのは、勝利の叫びです。パウロが追い求めているものが、ここにあります。・・・・

パウロは権力、評判、名声、地位、財産とはどのようなものかをよく知っていながら、キリスト・イエスの知識はそのすべてにまさると言っています。それは、どのような知識でしょうか?『キリストとその復活の力』という際立った知識です。なぜでしょう?この知識が導くもの、すなわち、この復活のいのちと力が持つ大きな可能性のためであり、その知識がもたらす究極的な結果のためです。その知識が彼を導いてくれる場所、主ご自身の御座と比べても全く劣ることのない場所のためです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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