2020年8月6日木曜日

【Daily Open Windows】8月6日

八月六日

あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み。(コロサイ一・二十七)

これは、何を意味しているのでしょう?神の前に出て、こんなふうに言うことではありません、『私は、純粋な動機を持ち続けてきました。私はいつも、とても正直で、熱心で誠実であったし、私の意図は、いつもすべてが最善のものでした。』意味のないことを語るのはやめましょう。こんな言い方をするのは、まったく愚かなことです。私たちは自分自身を知りません。神だけが、私たちの本当の姿を知っておられ、その中に、神とともにあるもの、神に取って値打ちのあるものなど、何ひとつありません。大切なのは、主イエス様の十字架が、よくも悪くも、私を圧し潰し、私を終わらせるものであったことに気づいて、主の前に全てをさらけ出しているだろうかということです。私は、神が創造されたあらゆる存在と同じように、最悪のことを行う可能性を持ったものです。誰であれ、自分が最悪のことをすることなどあり得ないという態度を取れば、それ自体が、何よりも深い欺瞞に満ちた態度ということになります。私たちは、自分の存在の中にある力の大きさを、実際にその力と向かいあうまで知らずにいます。私たちが、最悪の間違いを犯したことがなければ、それはまだ、神の憐れみの中でその経験を通されていないというだけで、それは必ず、目の前にあります。主は、原則として、その過ちをはっきりと指し示した上で言われます、『兄弟を憎む者はみな、人殺しです』と。これは、同じ精神です。あなたも、ただ、感情を高ぶらせて、この怒りを十分にかきたて、この性質をある段階まで追いやることをすれば、以前の自分なら恐怖で立ち尽くしていたようなことも、今は平気でできることに気付くでしょう。


あなたも私も、神の前に膝をかがめて、自分たちは最悪を行う可能性を持つ者であることを認め、自分の正しさの上に立つことをやめなければいなりません。神のいる場所から見て、正しいお方はキリストだけです。ただ一人の頼れるお方はキリストであり、そのことから、神の目の中に立つ方はキリストしかおらず、そして、あなたも私も、自分自身の壊れたさま、もろさ、意思の弱さと謙虚さを認めた上で、信仰によってキリストにしがみつく時、初めて、出口、解放、救いを見つけることができます。私たちは、神の言葉の背後に、表面上のたことばが示すものよりも、大きな何かを見なければいけません。『わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』この声明の中に、私たちが言っていることの全てが体現されています。

主が、目を留められる者とは誰でしょう?それは、『私は正しい!』とは決して言わない者であり、このように述べるものです、『これまで生きてきた男や女が間違っていたように、私も間違っているかもしれないし、私に犯すはずのない間違いなどひとつもありません。私が立つただひとつの土台はキリストです。ですから、助けてください、神様。キリストこそ、私の拠りどころです!』キリストを土台として立つということは、もうひとつの土台、すなわち、私たち自身は、どんな時も危険な土台であるという事実を、常に意識し、この理解の上に立つことです。主はこれほどまでに、私たちとは、まったく異なるお方であり、隔たりはあまりに大きく、重なり合うところはひとつもありません。キリストと私たちのあいだには、深く大きな裂け目があります。神は、ここが橋で結ばれているとは見ておられませんが、感謝すべきことに、神は御霊によって、キリストを私たちの中へと送っくてくださり、そして、この二つは依然、分かれたままであっても、古い創造はいつの日か消え去り、そして、キリストから来るものが、私たちの中へと働いて、そのままとどまり続けます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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