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2018年6月30日土曜日

神前有能[第二十五日]つなぐことと解くこと

ウォッチマン・ニー
神前有能
第三部、神がたまわる力

第二十五日
つなぐことと解くこと

わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。(イザヤ四十五・十一)

権威ある祈りには、二つの側面があります。ひとつは、つなぐ祈りであり、もうひとつは解く祈りです。地でつながれるものは、何であれ、天でもつながれ、また、地で解かれるものは、何であれ、天でも解かれることになります。地で行われることは、天でも、行われます。これが、マタイ伝十八章十八節です。第十九節も、祈りが続きます。ですから、つなぐことも、解くことも、同じように祈りを通して行われるものです。解く祈りとつなぐ祈りは、どちらも権威ある祈りです。普通の祈りは、つなぎ、解いていただくことを神に祈るものですが、権威ある祈りは、私たちが権威を用いて、つなぎ、解くものです。神がこうしてつなぐのは、教会が先につないだからであり、神が解くのは、教会が先に解いたからです。神はすでに、教会に権威を与えられました。教会がこの権威によって述べることを、主は何でも実行されます。

2018年6月20日水曜日

神前有能[第24日]権威ある祈り

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第24日
権威ある祈り

神を信じなさい。(マルコ11:23)

聖書には、何よりも崇高で霊的な種類の祈りが収められているのですが、そこで語られる言葉を認め、また、自分でその祈りを口にする人はごく僅かです。それは、どのような祈りでしょう?『権威を持った祈り』です。私たちは、賛美の祈り、感謝を捧げる祈り、願う祈り、そして、とりなしの祈りを知っていますが、権威ある祈りについては、ほとんど何も知りません。権威を持った祈りとは、御言葉の中でもっとも重要な地位を占めるものです。それは、権威を示すものであり、権威ある命令を発するものでもあります。

2018年6月12日火曜日

神前有能[第23日]御霊にある一致

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第23日
御霊にある一致

この人たちは、・・・みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒行伝1:14から)

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:18-20)

2018年5月31日木曜日

神前有能[第21日]教会の責務としての祈り

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第21日
教会の責務としての祈り

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56:7)

教会の責務としての祈りとは、天で何ごとかが行われるようにと、地上で祈るものです。マタイ十八章にあるような祈りは、明らかに、日々の日課としての祈りや、個人的な自分だけの祈りには含まれないことを覚えるべきです。私たちに何か個人的な必要が生じ、そのことで神に頼むと、神が答えてくださることは多くあります。個人的な祈りを用いるべき場合は、確かにあります。同じように、神がすぐ近くにおられると感じることも非常によくあります。神が、日々の日課としての祈りを聞いてくださることに感謝します。この祈りもまた、軽んじるべきではありません。兄弟姉妹の祈りが答えられないままであれば、または、神がすぐ近くにいることを感じなければ、何かが間違っていることも、私たちは理解しています。個人的な祈りに対しても、日々の日課としての祈りと同じく、心を配るべきです。とくに、若い信者にあっては、個人的な祈り、日々の日課としての祈りを欠いていたら、目の前に伸びる道筋を走っていくことはできないでしょう。

2018年5月17日木曜日

神前有能[第22日]地が天をつかさどる

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第22日
地が天をつかさどる

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。』この節の特徴とは何でしょう?ここで奇妙な点は、地上での行動が、天で行われる行動に先んじていることです。天で先につなぐのではなく、地上で先につなぎます。天ではじめに解かれるのではなく、地上で先に解くとあります。地がそれをつないだから、天もまた、つなぎます。地が解いたので、天もまた、それを解きます。天の行動は、地での行動によって、支配されています。神と相反するものはすべて、つながれる必要があり、神と一致するものはすべて、解かれる必要があります。それが何であろうと、つながれるにせよ、解かれるにせよ、そのつなぎ、また、解くという行動は、地上で始まります。地上での行動が、天での行動よりも先に行われますが、それは、地が天を支配しているからです。

2018年4月1日日曜日

神前有能[第31日]祈り会(二)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第三部、神がたまわる力

第31日
祈り会(二)

ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。(第一コリント14.40)

祈り会は、大切な会合です。どの会合も、それぞれ独特の性質を持っています。地上にいる私たちに、神が守って欲しいと望んでいる証しは、福音を伝えること、パンを裂くこと、そして、ともに祈ることの組み合わせによって達成されるものです。祈り会は、困難なものにも、簡単なものにもなります。新しい信者たちは、この祈り会という会合について学ぶ必要があります。

2018年3月28日水曜日

神前有能[第30日]祈り会(一)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第30日
祈り会(一)

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)

何かが成しとげられるため、また、最大限の力を得るために、祈り会は、もっとも大きな助けとなります。祈り会は、霊的な力強さの最良の計りとなります。たくさんの兄弟姉妹が来ること、そして、多くの祈りの課題が寄せられることを、私は願っています。

2018年3月16日金曜日

神前有能[第29日]群れでする祈り

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第29日
群れでする祈り

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。(第二歴代誌7:14)

キリスト教の独特なところは、その本質において、個人的ではなく、集団的であることです。キリスト教は、聖徒たちがひとつに集まることに重きをおきます。他のあらゆる宗教は個々の敬虔さを重視します。キリスト教だけが、人々に集まることを求めます。神の特別な恵みが、信じる者たちの集まりの上に注がれます。

2018年3月10日土曜日

神前有能[第28日]祈りと神のはたらき

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第28日
祈りと神のはたらき

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。(イザヤ62:6、7)

神が働くときは、特別な法と明確な原理を持って行われます。主は、御自身が望むままに何でもできるとはいえ、軽はずみに行動されることはありません。主は常に、御自身の明確に定まった法と原理に基づいて働かれます。主は、どのような法や原理をも超える存在であることは疑いもありません。この方は神であり、御自身の望まれるままに行動することが可能です。それでいて、聖書には実に驚くべき事実が記載されています。すなわち、全てを超える偉大さと、御心に沿って全てをあやつる力がありながら、なお、神はどんなときも、御自身で定められた法、原理に従って行動されます。あたかも、主は、意識して御自身を法の下に置き、御自分をこの法に支配させているように見えます。

2018年3月4日日曜日

神前有能[第26日]祈りの戦争

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第26日
祈りの戦争

私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(第2コリント10:4)

神が私たちのためにしてくれたことを、今、私たちは理解しているでしょうか?エペソ書の初めの章で、こう語られています。すなわち、キリストは天に昇られ、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。第2章にはいると、私たちが今や、主とともに、天の所にすわっていると、続けて語られます。これは、教会もまた、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれていると、言っているのと同じです。これが事実であることを、神に感謝します。キリストが、今、すべての上にある天におられるのですから、今日の教会もまた、すべてのはるか上に置かれています。主が、全ての霊的な敵対者より、はるか高いところにおられるように、教会も、全ての霊的な敵対者よりも高いところにあります。全ての霊的な敵対者を、天に昇られた主が凌いでいるのですから、主とともに天に昇った教会も、この霊的な敵対者を凌駕しています。このようにして、全ての霊的な敵対者は、教会の足の下に服従させられています。

2018年2月25日日曜日

神前有能[第27日]敵に対抗する祈り

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第27日
敵に対抗する祈り

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)

今の私たちの前に最も大切なことは、だれが敵なのかを見極めることです。敵対しているのは誰なのか、私たちに多くの苦しみを与える者が誰なのかを、確実に知ることが必要です。

2017年10月1日日曜日

神前有能[第20日]祈りの三つの側面

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第20日
祈りの三つの側面


すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)

私たちの祈りには三つの側面があります。(1)私たち自身、(2)私たちが祈る神、そして、(3)私たちの敵、サタンです。本物の祈りは必ずこの三つの側面、全てに関わっています。祈り始めるときは、まず自分自身の幸せを祈るのは普通のことです。私たちには、必要なものがあり、欲求と望みがあって、そのために祈るのです。人はまず、自分の要求を満たさんがために祈ります。とは言え、本物の祈りの中では、自分の幸せに直接、結びついたことだけを願うべきではなく、神の栄光、天による地上の支配についても、祈らなくてはなりません。祈りが答えられるにあたって、私たち、祈る者は直接的な受益者として、恩恵を受けるのですが、霊的な世界の現実を見ると、主も同じように栄光を受け、そこに、主の御心もなされることが分かります。祈りへの答えは、主御自身にも大きな栄光をもたらしますが、それは、主の子供たちの願いを満たす中で、主の愛と力の並々ならぬ偉大さが現れるからです。それはまた、御心がなされたことの現われでもあります。なぜなら、主は御心に沿っていない祈りに、応えることはないからです。

2017年8月2日水曜日

神前有能[第16日]涙をもって祈りなさい

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第16日
涙とともに祈りなさい

どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇56:8後半)

『私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです』(詩篇39:12)。神の前で涙とともに捧げる祈りは、声を聞いていただく最良の道です。祈りに涙が加われば、そこにはすぐに答えがあります。多くの祈りに、心が欠けているのは、そこに涙がないからです。心があるなら、なぜ、そこに涙を加えないのですか?そうすれば、あなたも、詩篇の作者のように、神にこう語ることができます、『旅人であり、寄留の者にすぎない私は、この地上に長くはいません。この世にいるだけで、十分みじめな者なのですから、私の声をどうか聞いてください。』そうすれば、神は必ず私たちの祈りを聞かれます。それ自体には何の効力もないとは言え、涙は、あなたの心の中にあるものを現します。すなわち、あなたが本当に、心からの願いを持っているということです。ですから、私たちも、祈りにもっと多くの涙を加え、主に聞いてもらえますように。

2017年7月26日水曜日

神前有能[第12日]祈りと重荷

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第12日
祈りと重荷

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇55:22)

神が祈りたいという思いを注ぐときはいつも、神の御霊がまず、私たちを動かして何かの重荷を与え、その特定の問題のために祈る心を起こさせます。そのような気持ちを与えられたらすぐに、自分を祈りへと捧げるべきです。この時、祈るために求められる代価を、すべて支払わなければなりません。御霊に動かされているとき、私たちの霊は重荷を感じ取り、心が何かに押しつぶされているかのように思うからです。祈り切ったときは、重い石が取り除けられような解放感を味わうでしょう。しかし、その気持ちを祈りに注ぎ出すことをしなければ、何かをやり残したように感じるはずです。祈り尽くしていなければ、神の心と調和を持っていません。祈りの中で誠実であろうとすれば、すなわち、重荷を乗せられたらすぐに祈り始めるなら、祈りは決して負担にはならず、むしろ光であり、喜びとなるはずです。

2017年7月13日木曜日

神前有能[第14日]霊において祈りなさい

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第14日
霊において祈りなさい

私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。(第1コリント14:15)

私たちは、霊において祈るだけでなく、『知性においても祈る』(第1コリント14:15)べきです。祈る時は、この二つが一緒に働かなくてはいけません。信じる者は、自分が何について祈るべきかを霊の中に受け、受け取ったものを知性の中で理解します。霊が祈りの重荷を引き受け、知性がその重荷を祈りの言葉に整えます。このかたちになって初めて、信じる者の祈りは完成します。キリスト者であっても、霊に何の啓示も受けないまま、自分の知性の中の考えに拠って、祈ることが実に多いのです。このような人は、自分自身が祈りの源になっています。しかし、真の祈りとは神の御座から生まれるものでなければなりません。そのような祈りは、まず、人の霊の中で感じ取り、次いで知性で理解し、最後に御霊の力を通して言葉になります。人の霊と祈りは切り離せないものです。

2017年7月1日土曜日

神前有能[第9日]祈りとは義です

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第9日
祈りとは義です

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17)

マタイ6章1~8節は3つのことがらにふれています。(1)施し(慈善)、(2)祈り、そして、(3)断食です。第1節はこう戒めています、『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。』これが全体の要点です。2~4節は施し、5~15節は祈り、そして、16~18節は断食について語っています。この3つは、それぞれが善行のかたちです。施しとは、人に見られるものであり、また、他者に対して行うことです。祈りは神に向かうものであり、断食は自分自身に関わるものです。人、神、自分のどれに対するものであろうと、誰かに見られることを目的として、善行を行ってはいけません。施し、祈り、そして、断食はいずれも、報いを受けますが、人に見られたら、将来の報いは消えてしまいます。キリスト者なら、こういった良い行いは隠れて行う習慣をつけるべきです。善行を行うときは、ふたつの正反対の誘惑を避けなくてはいけません。ひとつは、人の見ているところで、人によく思われるように行うことです。もう一つは、自分自身の考えで行い、人のことを思わないということです。ふたつは正反対のことですが、そのどちらも避けなくてはいけません。

2017年6月27日火曜日

神前有能[第19日]あきらめてはいけません

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第19日
あきらめてはいけません

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、神があなたがたに望んでおられることです。(第1テサロニケ5:16~18)

新しい信者の皆さん、私の経験から語ることをお許しください。祈りは、二つの部分に分けられるのではないかと思います。ひとつ目は、約束のない状態で、約束をいただくまで捧げる祈り、神のことばのないところから、御言葉が与えられるまで続ける祈りです。全ての祈りはこのように始まります。神に願いながら祈り、願い続けてください。ジョージ・ミューラーの場合、一分後に答えられた祈りがあり、また、7年間が経っても聞かれない祈りもありました。これが、祈るという部分に当たります。二つ目の部分は、約束が与えられたところから、その約束が成就されるまで、神の言葉をいただいてから、その御言葉が実現するまでの祈りです。この期間にあるべきは、賛美であって、祈りではありません。すなわち、初めの部分は祈り、二つ目の部分は賛美です。初めの部分では、言葉なきところから、神の言葉があるまで祈ってください。第二の部分では、約束をいただいてから、その約束が成し遂げられるまで、褒めたたえてください。これが、祈りの奥義です。

2017年6月21日水曜日

神前有能[第18日]悪い動機で祈ってはいけません

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第18日
悪い動機で祈ってはいけません


願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4:3)


人はいつでも、神に願うべきです。しかし、聖書には、そこにもうひとつの条件があると書かれています。悪い動機で願ってはいけない、ということです。『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(ヤコブ4:3)神に自分の必要なものを頼むことは許されますが、正当な理由なく求めたり、自分に相応な範囲を超えて頼むべきではありません。神の前に、いわゆる、『大きな祈り』ができるようになるためには、数年間の学びが必要です。

霊的な生活が始まったばかりの頃は、大きな祈りと、悪い動機でする祈りを、はっきり区別することは難しいものです。初めの頃、最も良いのは、自分の欲望のままに祈ったり、切実な必要のないものを気まぐれに(不注意に)願ったりしないことです。神は、私たちの必要を満たし、本当に必要なものだけを与えてくれます。とは言え、神が私たちが頼んだものよりはるかに多くものを豊かに賜ることも、よくあります。しかし、若者が間違ったかたちで頼んでも、決して聞かれることはないでしょう。

悪い動機で願うとは、どういうことでしょう。それは、自分に相応な分を超えて願ったり、必要以上に願ったり、また、実際に求めるものよりも多くを頼むことです。

2017年4月6日木曜日

神前有能[第8日]『だから、こう祈りなさい』(4)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第8日
『だから、こう祈りなさい』(4)


『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。』詩篇103:1

『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』マタイ6.9~13

主は、この最後の部分で、三つのことで神を讃えるように教えています、『国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』この賛美で、国が父のものであり、力は父のものであり、また、栄えが父のものであることをうたいあげます。讃えられるべきこの3つのものは、悪からの解放と結びついています。それどころか、この3つは、主が教えられた祈りの全てとつながっているのです。悪からの解放を祈るのは、御国が父のものであって、サタンのものではなく、力は父のものであって、サタンのものではなく、そして、栄えは父のものであって、サタンのものではないからです。心に留めるべきはここです。すなわち、御国は父のものですから、私たちはサタンの手に堕ちるべきではなく、力は父のものですから、私たちはサタンの手に堕ちてはならず、そしてまた、栄えは父のものですから、私たちはサタンの手に堕ちることはありません。これは非常に力強い動機となります。私たちがサタンの手に堕ちたら、どうして父が褒めたたえられるでしょう?しかし、支配するお方が主であれば、サタンは私たちに何もできません。天の御国は父のものなのですから、私たちはサタンの手に堕ちることはないし、また、堕ちるべきでもありません。

2017年4月3日月曜日

神前有能[第7日]『だから、こう祈りなさい』(3)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第7日
『だから、こう祈りなさい』(3)

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』詩篇23:1

『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』マタイ6.9~13

イエス様が祈り方を語られたこの箇所の後半には、自分のための3つ祈りがでてきます。

初めに出てくるのは、『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。』なぜ主が、私たちに神の御名、神の御国、神のみこころのために祈るよう教えるのか、なかなか理解できない人もいるかもしれませんが、ここで突然、はなしは、日ごとの糧のことに替わります。この崇高な祈りから、急に日常生活に飛び込むとは、一万フィートも急降下するような感じがします。しかし、そこには大切な理由があるのです。