2021年1月29日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】1月29日

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。【エペソ2:8-9】

今日の教会には、恐ろしい間違いが蔓延しています。人間は、自分の生活で、神とのつながりが大きな位置を占めていると考えていますが、実際にはそうではありません。現実には存在しない神とのつながりに、希望を託す人もいます。

宗教の呪いは、このような考え方を広めてしまうことです。

私たちは皆、自分が神の子供であると信じていて、『神にして、全ての人間の父』であるお方のことを語るとき、それは全ての人を含んでいます。聖書のどこにも、神が人類の御父であるなどと教えてはいません。

2021年1月28日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】1月28日

主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。【第一サムエル2:2】

神を求める聖なる礼拝のことで、はっきりさせておかなければなりません。人は、自分のやりたいように神を礼拝することはできません。礼拝するものとして人を造られたお方は、人がどのように礼拝すべきかも定めています。神は、どんな礼拝でも受け入れるわけではありません。

神は、今の私たちの状態で捧げる人間の礼拝を全て拒絶されました。神は、私たちが礼拝することを望んでおられ、私たちがみもとに来るように命じ、招かれますが、人間的な礼拝は全て否定し、拒絶されます。

2021年1月24日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】1月24日

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。【イザヤ40:5】

礼拝に現れる形式主義や二枚舌に対処する道は誠実さです。礼拝は、形式や不誠実にとらわれてしまいがちです。礼拝が真摯なものでなく、決まった動作をなぞっているだけなら、礼拝をすべきではありません。

今日、礼拝を通して行われることの多くは誠実ではありません。実際、率直に言うと、多くは迷信の上に立っています。ちょうどよいところで、ちょうどよい言葉をつぶやけば、なにか良いことが起こる。指を決まったかたちで動かせば、良いことがある。

2021年1月23日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】1月23日

すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。【士師記6:21】

じっくり考えた上での私の意見は、神にふさわしい礼拝を捧げるには、砕かれた人間が必要であるということです。

イスラエルがその例です。イスラエルは、火が聖所を去った後も神を礼拝しようとしましたが、そこにはシャカイナ――神の栄光はなく、火もなく、光もなく、臨在もありません。イスラエルは、礼拝の御霊はとうに去ったことを忘れて、むだで、無意味な礼拝を続けました。イスラエルは、礼拝の装飾や儀礼ばかりに通じていて、本当のエホバを礼拝してないことに気づかなったのです。

2021年1月1日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】1月1日

私たちは東の方で彼の星を見たので、彼を礼拝するために来たのです。【マタイ2:2】

キリスト者にとって、あらゆることが礼拝に始まり、礼拝で終わります。何であれ、神への個人的な礼拝に干渉するものには、適切に対処し、排除しなければなりません。礼拝とは、他に何にもまして、心の態度であり、心の持ち方であり、そして、常に続けてゆく行為であることを心に留めてください。それは、体で示す態度ではなく、心の内側の神に向けた行為です。全能なる神から、信じる私たちへの力強い贈り物とは、私たちを礼拝者とすることです。残念なことに、私たちは、礼拝者とは根本的に異なる者になってしまいました。罪は、神に似せて造られた者たちからの礼拝という純粋なよろこびを、神から奪ってしまいます。新生の奇蹟を通して、私たちの神との断絶は取り除かれ、そして、主の贖いを通して、私たちは神の友となり、礼拝と言う領域へと、連れ戻されたのです。