2021年1月23日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】1月23日

すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。【士師記6:21】

じっくり考えた上での私の意見は、神にふさわしい礼拝を捧げるには、砕かれた人間が必要であるということです。

イスラエルがその例です。イスラエルは、火が聖所を去った後も神を礼拝しようとしましたが、そこにはシャカイナ――神の栄光はなく、火もなく、光もなく、臨在もありません。イスラエルは、礼拝の御霊はとうに去ったことを忘れて、むだで、無意味な礼拝を続けました。イスラエルは、礼拝の装飾や儀礼ばかりに通じていて、本当のエホバを礼拝してないことに気づかなったのです。

息子たちは、父たちと同じ神を礼拝してはいても、ほとんどの面では、父親たちが行うのを何千回と見ていた動作をなぞっているに過ぎません。栄光はどこにあるのでしょう?火はどこにあるのでしょう?神の臨在の前に、砕かれた心はどこにあるでしょう?

教会は今こそ、この礼拝という大きな問題を考え直すべきであると、私は思います。霊的であることは、礼拝の材料のひとつであり、霊的でなければ、神に受け入れてもらえる礼拝はできません。そして、どれだけ礼拝しても、受け入れられる礼拝でなければ、無意味な礼拝であり、試みないほうが良いようなものです。

吹きかけてください、神の息吹を、
私の全てがあなたのものとなるまで、
私のこの地上に属する部分が、
神聖なあなたの炎で輝くまで。
エドウィン・ハッチ(1835~1889)

聖霊よ、神の日よ、心の中のかたくなな部分を溶かし、私が、あなたの臨在の豊かさを経験できるようにしてください。
イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

My Daily Pursuit, Devotions for every day
A.W. Tozer

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