2021年1月24日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】1月24日

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。【イザヤ40:5】

礼拝に現れる形式主義や二枚舌に対処する道は誠実さです。礼拝は、形式や不誠実にとらわれてしまいがちです。礼拝が真摯なものでなく、決まった動作をなぞっているだけなら、礼拝をすべきではありません。

今日、礼拝を通して行われることの多くは誠実ではありません。実際、率直に言うと、多くは迷信の上に立っています。ちょうどよいところで、ちょうどよい言葉をつぶやけば、なにか良いことが起こる。指を決まったかたちで動かせば、良いことがある。

良いことが起こるというのは、礼拝とはいっさい何の関係もなく、この世的な快楽や欲望とつながるものです。神への礼拝の中に、そのようなものは一切ありません。

神への礼拝は、礼拝に対する真摯な思いに基づいていなければなりません――人生に何かが加わることを求めるのではなく、神の臨在の中に入ることです。これが礼拝の全てなのです。人は祝福について語りますが、その定義はこれ以上はないほど肉的なものです。

礼拝における祝福とは、誠実な心で神の臨在へと入ることであり、神があなたの存在の中にいるように、あなたも神の臨在の中に迎え入れられていると知ることです。

イエス様、私たちのよろこびはあなただけです、
あなたが私たちの褒章であるように、
イエス様、あなたが私たちの栄光でありますように、
それが、永遠に続きますように。
クレルヴォーのベルナルドゥス(1090–1153)

愛する神、主イエス・キリストの父なる神よ、
私はあなたを真の神として讃え、真っ直ぐな誠意をもって礼拝します。
あなたが、今日の生活の中で栄光を受けられますように。イエス様の御名によってお祈りします、アーメン。

My Daily Pursuit, Devotions for every day
A.W. Tozer

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