キリスト者にとって、あらゆることが礼拝に始まり、礼拝で終わります。何であれ、神への個人的な礼拝に干渉するものには、適切に対処し、排除しなければなりません。礼拝とは、他に何にもまして、心の態度であり、心の持ち方であり、そして、常に続けてゆく行為であることを心に留めてください。それは、体で示す態度ではなく、心の内側の神に向けた行為です。全能なる神から、信じる私たちへの力強い贈り物とは、私たちを礼拝者とすることです。残念なことに、私たちは、礼拝者とは根本的に異なる者になってしまいました。罪は、神に似せて造られた者たちからの礼拝という純粋なよろこびを、神から奪ってしまいます。新生の奇蹟を通して、私たちの神との断絶は取り除かれ、そして、主の贖いを通して、私たちは神の友となり、礼拝と言う領域へと、連れ戻されたのです。
私たちすべてにとって、一日一日が、神を礼拝せよという特別な呼びかけです。目覚めよ、我が魂よ、よろこびに満ちた姿へと。そして、偉大な贖い主への賛美を歌え。サミュエル・メドレー(1738~1799)
天なる父よ、私は今日、この日をよろこびに満ちた礼拝で始めます。
あなたが私を召し、賛美と崇拝の中で、私はあなたに答えます。
イエス様の御名によってお祈りします、アーメン。
My Daily Pursuit, Devotions for every day
A.W. Tozer
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