2021年6月29日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月29日

しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。【ホセア13:4~5】

神の近くにいたいという願いは、事実、神のようでありたいという願いです。神と同じようになって、完全な交わりができるように――そうして、心と神が、神聖な交わりの中でひとつになれるようにという、贖い出された心の願望なのです。

人が神と似ているところがあるからこそ、神と子どもたちの交わりが、互いを結びつけ、うまくゆくのであり、生まれ変わった子どもたちの中で、もっとも貧しく弱いものであっても同じです。しかし、全く似ていない部分もあり、その違いのゆえに、あるべき交わりが持てないのです。

2021年6月27日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】 6月27日

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。【詩篇31:1~2】

ほとんどのキリスト者は、神学的なキリスト者です。彼らは、自分が救われていることを知っています。誰かがどこかで、彼らに教会名の入った新約聖書を手渡したのですが、神学を正しく理解させるためにそうするのは、悪いことではありません。問題は、彼らが神の存在を感じることなしに、幸せになろうと試みていることです。神の近くにいたい、神が自分の近くにいて欲しいというこの切実な願いは、神の民ならば誰でももっているものです。祈り、歌、賛美の中にも表れています。

2021年6月22日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月22日

私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。【詩篇18:6】

私たちが大いによろこぶべき、聖書の偉大な真理のひとつは、今日、新生したばかりの新しい改宗者であっても、いく分かは神の高潔さに近づいており、それによって、ある程度の一致が与えられているということです。天国とは、全てが完全に一致しているところです。罪が、神と罪人のあいだの不一致をもたらしたのです。

2021年6月20日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月20日

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。【ヘブル10:12~14】

義認とは、罪人を正しい者と宣告することですが、これはその人の外で行われます。義とされても、その義認がその人に起こった全てであれば、それだけで終わりです。義認は、本来、司法の場で行われるものです。誰かが法廷に立って、ある犯罪と関わりがない――無罪であると宣告されても、それで、その人の内面が変わるわけではありません。その人の体重は、前と完全に同じだし、背の高さも変わりなく、髪や目の色も変わってはいません。人間関係も前と違うところはなく、全ての面で、以前と同じ人間です。ただひとつ違うのは、この人は司法的に自由であり、法の前に無罪であると宣告されたことです。

自分が無罪と宣告されたら、誰でもその事実をよろこぶでしょう。しかし、宣告をしたのは、本人ではありません。この宣告は、陪審員の頭の中で、法律に則って行われたものです。

2021年6月18日金曜日

エイデン・W・トウザーについて

エイデン・ウィルソン・トウザー(Aiden Wilson Tozer)は、アメリカ人の牧師、説教師、著述家、雑誌編集者で、霊的指導者。1897年4月21日に生まれ、1963年5月12日に死去した。

トウザーは、ペンシルベニア州の小さな農村ラ・ホセの西部で生まれた。十代のころ、オハイオ州アクロンで仕事からの帰り道、彼は路上の説教者の言葉を耳にした、『どうすれば救われるか分からなければ、神にこう頼むだけでよい、主よ、罪人の私を憐れんでください。』家に帰ると、彼は屋根裏部屋に上り、これを実行した。これがきっかけでトウザーは、キリスト教徒に改宗した。

それから5年後の1919年、正式に神学を学んだこともないまま、トウザーは初めて行った教会の牧師になって欲しいという要請を受け入れた。これは、彼の44年に渡る聖職者としての活動の始まりであり、この後、たくさんの教会で牧師として勤めた。初めて、牧師として働いたのはウェスト・バージニア州ナッター・フォートにある道端の小さな教会だった。トウザーは、シカゴのサウスサイド・アライアンス・チャーチでも30年間、牧師として働いた。キリスト者の生き方を観察して、彼は教会が『この世的の』関心と妥協するという危険な道を歩んでいると感じていた。

2021年6月17日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月17日

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。【コロサイ2:13~14】

放蕩息子は、あまりに辛い日々を経験した後で、ついに自分を取り戻しました。それは、苦しくても、価値のある旅です。我に返ったとき、自分が何をしなければならないか、彼にはすぐに分かりました。

あまりに多くの人が、自分が何をすべきかを知らないために、遠い国をさまよい、父親から遠く離れています。自分が置かれている状況にいら立っているのかもしれません。何をしたらいいのか、探し求めているのかもしれません。我に返って、自分の現実の姿を知るまで、何をすべきか、知ることはできません。

2021年6月16日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月16日

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。【ルカ15:22~24】

放蕩息子が帰ってきたとき、父親は前と変わっていたでしょうか?

放蕩息子が、父に冷たい仕打ちをしても、また、近所の人たちが哀れんで、『ああ、あの息子、可愛そうな年老いたお父さんになんてひどいことを』とうわさしても、父親は、全く変わっていなかったのです。この父親は、屈辱を受けて失望し、嘆き、心を痛めていたのですが、息子が帰ってきたとき、前と何も変わってはいませんでした。

2021年6月15日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月15日

弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。【ルカ15:12~13】

多くの人が、放蕩息子のたとえを説明しようとしてきました。彼を、背信者と呼ぶ人がいます。彼を、罪人と呼ぶ人もいます。しかしながら、神が罪人のことで、『この息子は、死んでいたのが生き返った』と語るところを想像できるでしょうか

どちらも受け入れられなかったので、私は、神のところに行って、願いました、『神よ、お示しください。』

2021年6月14日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月14日

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。【ルカ15:17】

おそらく、すべての書の中でもっとも偉大な物語のひとつが放蕩息子の話でしょう。

二人の息子のうち、弟は退屈な生活に飽き飽きしてしまい、遠い世界に憧れて、冒険と興奮を求めるようになりました。彼は、財産の分け前を受け取ると、外の世界に出てゆき、毎日を遊興の中に暮らしました。彼がどのくらい、そんな生活を続けたのかは分かりませんが、結局、豚の世話をして生活するほどに落ちぶれてしましました。これはユダヤ人の男性にとっては、最下層の仕事だったのです。

2021年6月7日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月7日

あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らない。【申命記10:17】

神について考えるときに考慮すべき、もっとも大切な点として、神は決して、いら立つことがありません。人間は、いら立つものであり、それには理由があります。私たちは無限ではありません。しかし、神は、何に対しても、誰に対しても、どんな時も、いら立つ理由はありません。

神がいら立つことがないのは、限りのないお方だからです。無限であるからこそ、神は、常に神で有り続け、決して、変わることがありません。神なるものは、すべてが完全な調和のうちにあります。その全てを、神は永遠の御子に授けてくださいます。

2021年6月4日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月4日

ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。【ローマ5:15】

ジョン・バニヤンは自叙伝を書き、その書を『罪人のかしらに恵みが満ちる』と名付けました。バニヤンは、この題が、まさしく自分の人生を現していると思っていました。彼は、神の恵みを受けるのに、自分ほどふさわしくない者はいないと信じていました。実際には、ふさわしい人などいなかったのです。しかし、彼は、自分の罪を深く思い、自分を救い出したのは神の満ちあふれる恵みに他ならないと感じていました。

2021年6月2日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月2日

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。【箴言3:34~35】

誰であろうと、過去に何をしていようとも、すべての人は神の恵みのもとに置かれています。しかし、誰もが神の救いの恵みを経験するわけではなく、ここに、大きな違いがあります。神の恵みはすべての人に及ぶのですが、その恵みが、イエス・キリストへの信仰を通して働くときに初めて、新生が起こります。

すべての人がこの恵みを経験するわけではありません。それでも、神は、ご自身の思いやりで、誰に対しても、悔い改める機会を与えるまで、下されるべき裁きを留め置かれます。

恵みとは、神の優しさです。神の心にある思いやりであり、神の好意であり、心からの愛です。神が、どのようなお方かということを表すものです。