2021年6月20日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月20日

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。【ヘブル10:12~14】

義認とは、罪人を正しい者と宣告することですが、これはその人の外で行われます。義とされても、その義認がその人に起こった全てであれば、それだけで終わりです。義認は、本来、司法の場で行われるものです。誰かが法廷に立って、ある犯罪と関わりがない――無罪であると宣告されても、それで、その人の内面が変わるわけではありません。その人の体重は、前と完全に同じだし、背の高さも変わりなく、髪や目の色も変わってはいません。人間関係も前と違うところはなく、全ての面で、以前と同じ人間です。ただひとつ違うのは、この人は司法的に自由であり、法の前に無罪であると宣告されたことです。

自分が無罪と宣告されたら、誰でもその事実をよろこぶでしょう。しかし、宣告をしたのは、本人ではありません。この宣告は、陪審員の頭の中で、法律に則って行われたものです。

義認とは、ご自身と私たちを和解させるために、神が行う行為です。

神は初めに、罪のあがないを確実なものとされたのであり、その上に立って行われたのが、義認という働きです。イエス様が十字架で死なれて、私たちの償いの代価を支払ってくれたからこそ、神は今、目の前にいる私たちを義とすることができます。神が見ているのは私たちではなく、キリストなのです。

律法から自由になった――ああ、幸せな状態!
イエス様が血を流されて、ここに赦しがある。
律法によって呪われ、堕落によって打たれていた、
この私たちを、恵みが完全にあがなってくれた。
フィリップ・P・ブリス(1838~1876)

ああ、父よ、義とされて、罪の懲罰から解放されたと知ることが、私を大きなよろこびの地へと導きます。キリストが私のために成し遂げてくれた働きのゆえに、あなたを讃えます。イエス様の祝福された御名によって祈ります。アーメン。

My Daily Pursuit, Devotions for Every Day
A.W. Tozer。

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