2021年12月29日水曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第11回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十一回会合—『主の臨在:「主が私たちとともにおられる」』
Meeting 11 - The Presence of the Lord: "The Lord is With Us"

第十一回会合
(1964年2月8日午前)

引用聖句、出エジプト記25:8、ヨハネ1:14:
『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。)この方は恵みとまことに満ちておられた。』

人のあいだに住みたいという神の大いなる願いについて、今朝も話しを続けます。私たちの個人的な生活において、主の民としてともに生きる生活において、主のためのすべての働きにおいて、何よりも大切なことは主の臨在であります。主の臨在ほど重要なものは、他にありません。私たちは、そのことについて、いつも祈っているので、その大切さはよく理解しているはずです。私たちは毎日、主がともにいてくださるように祈っています。会合に集まったときも、主がともにいてくださるように祈ります。何かしら、主の奉仕に出かけるときも、主がともにいてくださるように祈ります。しかし、どれだけ祈っても、祈るだけでは主の臨在は確実なものにはならないことを、私たちはほとんど理解していません。私たちは、主の臨在を求めて、昼も夜も休みなく祈り、幾夜も続けて祈ることがあります。そして、主の臨在を求めてこれだけ祈るのだから、主が臨在されることは間違いないと考えるかもしれません。それは、私たちがどれだけ祈るかかというだけの問題ではありません。主の臨在は、その対象が主にふさわしいかどうかによって決まります。主が臨在するように祈っても、その対象が間違っていれば、主の臨在はありません。

2021年12月7日火曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第10回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十回会合— 『イエス様は新しい天のイスラエルをなすために来られた』
Meeting 10 ─ Jesus Came to Form a New Heavenly Israel

第十回会合
(1964年2月7日午後)

私たちは昨夜、非常に大きな真理を示すところから始めました。それは、地上におられた時の主イエス様のすべての教えと働きは、歴史上における最大の危機のひとつと関わっていたということです。その危機とは、国としてのイスラエルが、少なくともこの時代が続くかぎり、主の目の前から排除されたことでした。この危機は、イエス様が宣教を開始したとき、すでに始まっていました。そして、イエス様が宣教を終えるとき、この危機は決定的なものとなり、そのまま、確定しました。イスラエルという国は、この世界で何百年にも渡って神の関心の中心に置かれていましたが、今や、退けられてしまいました。預言者たちはそのことを前から語っていました。そして、それはイエス様がこの世での宣教活動に入られたときに始まりました。バプテスマのヨハネが荒野に現れ、群衆が彼のもとに集まった時、パリサイ人とサドカイ人がやってくるのが見えました。彼らは全イスラエルの代表者だったのです。ヨハネは彼らに言いました、「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」これは、アブラハムの子孫たちが拒絶されたことを、ことばを換えて表しているに過ぎません。

2021年11月23日火曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第9回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第九回会合— 『それは天から、神の御霊によって来たのですか?』
Meeting 9 --- Has it Come From Heaven by the Spirit of God?

第9回会合
(1964年2月7日午前)

今朝、初めて参加され、今週の朝の会合には、これまで出ていなかった方も、何人かいると思います。新しく来た方を含めた参加者全員のために、今、私たちを悩ませていることが何か、繰り返しておきます。私たちの誰もが知っているように、何世紀という時を経て、キリスト教は、初めには存在していなかったものが積み上げられた姿に変わってしまいました。今日、私たちが知っているキリスト教は、きわめて複雑化しています。神のものに人の手が加わり、そして、人間はこの偉大なものを、自分自身の判断に沿って建て上げようと試みてきました。このために、大きな混乱、大きな分裂が生じ、そして、全てが複雑化しています。キリスト教は、本当に苦しい時代を迎えています。キリスト教は、キリスト信仰自体に対する最大の阻害要因となってしまいました。ですから、この朝の会合で私たちが行おうとしているのは、人間がキリスト教に付け加えたものを見直して、初めの基本的な原理を再発見し、定義し直すことです。キリスト教にとって真実であるものは何か、その明確な定義を示してくださるよう、私たちは主にお願いします。これまでの朝の会合で、非常に多くのことを語ってきましたが、それをここで繰り返すことはしません。今朝、初めて参加された方は、その点をご了承ください。

2021年10月6日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】10月6日:宗教の失敗

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。(第二テモテ3:5)

宗教の中では、また、宗教によっては、罪人の必要を十分に満たすことはできないという事実を直視しようとしない人たちが、何百万人といます。

宗教家たちは、驚くほどたくさんのことを、あなたにしたいと望んでいます。幼児洗礼から始まり、あなたが百八歳まで生きた時には、最後の儀式まで取り仕切るのです――そのあいだ、ずっと、あなたを操り、あなたの心を傷つけ、そして、甘い言葉であなたの魂を解きほぐそうとします。それが全て終わった後も、あなたは、結局、もとのあなたのままです。あなたは、飾り付けられ、魂を解きほぐされた罪人――肉を食べなかった罪人とか、魚を食べた罪人――に過ぎないのです。

2021年10月4日月曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】10月4日:「目標を目ざして」

うしろのものを忘れ、・・・目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)

キリストの信仰者に対し、自分の昔の姿を振り返って、落胆するように仕向けるのは、悪魔が昔からよく使う手口のひとつです。私たちの魂の敵はいつも、神の愛は尽きないことを忘れさせようとします。

神の誠実さに目を向け、自分自身を見つめることをやめて初めて、人は神とともに前進することができるのです!

新約聖書が私たちに教えていることは、つきつめれば、信仰をもって前を向くこと――そして、後ろを振り返ったり、自分の内側を見つめて時間をつぶさないこと――の大切さということになります

2021年9月24日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】9月24日:私たちの日々の問題

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。(第一コリント10:13)

キリストの信仰者が、キリスト者として生きることが、人間的な試練や問題に対する保証になると考えているなら、その人は間違った教えを受けていることになります。そのように信じている人は、地上を天国と取り違えており、天上のよりよい世界に至ってはじめて実現する状態を、この地上で求めているのです。

神は聖人と罪人のあいだに何の区別も置かないと、誰もが感じています。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくだいます(マタイ5:45)。不思議なことに、私たちはこの真実の裏側になかなか気づきません――すなわち、神は、どんな人間にも起こる問題を、ご自身を信じる神の子供たちにも、等しく与えられるのです。

2021年9月10日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第6回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合6 — 『霊的な理解こそ何よりも大切です』
Meeting 6 - "The Most Important Thing is Spiritual Understanding"

第6回会合
(1964年2月5日午後)

マタイの福音書、13章1~17節から、神のみ言葉を読むことにします。

『その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」』

2021年9月1日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】 9月1日:神への信頼

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができます。(第一ヨハネ3:21)

キリスト者の生活の中で気づく、非常に大切なことのひとつがこれです――私たちは、ご自身を明らかにしてくださった神に、全幅の信頼を置くことができるのです!

キリスト者としての人生が始まったばかりの頃、神は人を裁くために制裁を加えるようなお方ではないことを理解できたのは、私にとって大きな恵みでした。神は、私たちが塵に過ぎないことをご存知であり、私たちの神として、愛と忍耐をお持ちです。

2021年8月27日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月27日:祈らない人たち

この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(第一コリント3:13)

キリスト教において、礼拝者が非常に不足している兆候がいたるところに見られます。

教会の委員会などには、すすんで参加するのに、霊的なよろこびや輝きを求める気持ちがなく、祈り会には全く顔を出さないような人たちがたくさんいます。

祈りもしないし、礼拝もしない人たちが、多くの教会を運営し、教会が進む方向を最終的に決定しているという事実は、私には、いつも、恐ろしく不自然なことに思えます。

2021年8月25日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月25日:サタンの策略

私たちは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。(第二ペテロ1:16)

驚くべきことに、キリストの信者に対するサタンのもっとも巧妙な策略は、私たちの美徳とするところを逆手に取って用いることです!もっと驚くべきことに、この策略は、しばしば大きな成功を収めているのです。

罪の誘惑という手立てを使って、私たちの個人生活を攻撃し、私たちの美徳を通して働くことで、サタンは信者の共同体を攻撃し、自分では守れないようにするのです。

街を攻め取ろうと思えば、敵はまず、その抵抗力を弱め、破壊します。教会は、抵抗しているあいだは、陥落することはありません。それを知っている悪魔は、教会の抵抗を無力化するためにあらゆる策略を用います。

2021年8月20日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月20日:『縮む』クリスチャン

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛し・・・・ました。(エペソ5:1-2)

改宗したばかりの人は、すぐにはじめの熱意を失って、メリハリのない宗教的な日常生活に落ち着くことになるという考えが、キリスト教界の一部では信じられていますが、私たちも同じ考えを受け入れなければならないのでしょうか?私は、聖徒たちの幸福をいつも心で願っているつもりですが、キリスト者たちの中に、『世間並みの信者』という称号を受け入れて満足している人がいることには、心を痛めています。

2021年8月19日木曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月19日:遠くにいる神

わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ。――遠くにいれば、神ではないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。(エレミア23:23-24)

子供のころ、神の存在についての短い歌にあった『星空の彼方、遠く』という歌詞をよく覚えています。

そこは、人間が神を置いた場所です。神は、星空の向こうのどこか、遠いところにいることになったのです。

この世に生きる人間として、私たちは神の存在を自分に理解できる空間の観点から考えがちです。私たちは、光年とかメートル、マイル、尋(水深)などの単位で考えます。私たちは、神がどこかの場所に住んでいると考えます――違います!神は、ある人々が考えているように、天と地のあるところにいつも住んでいるのではありません。

2021年8月16日月曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第8回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合8 — 『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか』
Meeting 8 - "Have You Understood All These Things?"

第8回会合
(1964年2月6日午後)

もう一度、マタイによる福音書、第13章、1~3節を読むことにします。

『その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。』

2021年8月15日日曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月15日:来るべき祝福の日

8月15日:来るべき祝福の日

神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。 (第二コリント5:1)

多くの人たちが、天国に行くことについて話していますが、世の宗教が与える希望は、実にはかないものです。

死という出来事の向こうに、祝福された状態を求めることができるという希望は、神の優しさ、そして、イエス・キリストが私たちのために十字架でなされた購いの御業の中にしかあり得ません。

神の深い深い愛は、そこから後の幸福が流れ出る泉であり、キリストにある神の恵みは、その泉から私たちに届く水路です。キリストの十字架は、神と同じ性質が罪人の側にあるという、高潔な状況を作り出します。

2021年8月13日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月13日:私たちはどのように主を知っているか?

8月13日:私たちはどのように主を知っているか?

私は、自分の信じて来た方をよく知っているからです。(第二テモテ1:12)

今日の近代的なキリスト教が置かれた状況をかんがみると、私は問いかけざるを得ません。『自分をクリスチャンと呼ぶ人たちの多くは、本当の体験をしていないのではないか?』

私たちは、心を奪うような出会いの代わりに、神学的な考え方を求めるようになりました。私たちの心は宗教的な考えで満ちていますが、そこにある大きな弱点は、この心を支えてくるものが何もないことです!

他に何があろうとも、真のキリスト者の経験には、常に、神との純粋な出会いが含まれていなければなりません。それがなければ、宗教は、ただの影、現実生活の反映、他の誰かに聞いたよろこびの経験の安っぽい複製に過ぎません。

2021年8月11日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】8月11日:霊的な窒息

8月11日:霊的な窒息

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)

人間は、霊的に窒息しやすいものであることを、わかり易く説明してみます。

かつて採掘会社は、かごに入れた生きた鳥を、採掘坑の奥深くまで連れて行って、危険なガスの存在を検知するために使ったそうです。高濃度の有毒ガスがあると、鳥はすぐに檻の底に落ちて死んでしまうのです。

私は、鳥とは、神が作った奇蹟だと思っています――緑の草原からかけ昇り、天井の甘い空気を吸うために造られた翼のついた奇蹟です。しかし、その鳥を、湿って汚染された暗い地下に連れていけば、直ちに窒息して死んでしまうのです!

2021年8月6日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第7回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合7 — 『主の教会はキリストに由来します』
Meeting 7 - Christ Corporate is the Church

第7回会合
(1964年2月6日午前)

引用聖句:ヨハネ4:19-23、出エジプト記25:8.
『女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。』

『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』

2021年8月4日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】8月3日

正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。(詩篇32:11)

私は、福音主義教会に、救いとは、あたりを照らす電球でも、地獄を避けるための保険証書でもなく、神とその心への入り口であることに気づくようにと祈っています。

カルト集団は、この小さな宗教ゲームが大好きです。彼らは、保険契約を結ぶようなやり方で安心を提供しようとします。残念ながら、彼らが提供するものは、聖書が与えるものより、はるかに劣っています。

私が心配するのは、世の福音教会も、危険なほど、このような態度に近づいてしまっていることです。どういうわけか、人が改心する理由も、この水準まで堕落してしまったのです。人が何から救われたのかということでも、神に感謝すべきではありますが、むしろ、何へと救われたのかということが大切なのです。

2021年8月3日火曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】 8月3日:神さま、確信をありがとう

8月3日:神さま、確信をありがとう

良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。(箴言15:23)

現代人は、どこへでも行けるし、好きなことをできるし、宇宙について、何でも知りたいと思うことも許されています。しかし、神を知りたいと思うだけの好奇心を持つ人は、めったにいません。

神が私たちを探し、見つけ、主の招きの声に、『イエス様、みもとに参ります!』と言える者としてくださったことに対して、私たちは十分、感謝しているとは言えません。

私は、自分がまだ17歳だったころ、この何も知らなかった少年の心に、聖霊が静かに働きかけたことを、何度も思い出します。ある隣人がいて――『ホルマンさん』という名前しか知りませんでした――この方が、キリスト教徒であることは聞いていました。

2021年7月30日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月30日

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。【第一ヨハネ3:2】

私の好きな気味悪い一服の絵があるのですが、その絵がこの考え方の理解を助けてくれます。それは、天使と猿が部屋の中に並んで座って、お互いを見つめ合っているという絵です。

天使と猿が、ひとつになることは絶対にあり得ません。どうすれば、そんなことができるでしょう?

もし偉大なる全能の神が、ご自身の栄光と祝福に満ちた天的な性質を天使から取って、猿の中に預け入れたら、猿は飛び上がり、天使と握手してその名前を呼ぶでしょう。その瞬間、二者のあいだに類似が生じるからです。

2021年7月29日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月29日

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。【第二ペテロ1:4】

ここで使徒ペテロは、主による取りなしという問題を、自分なりに説明しています。神が私たちに福音の約束を残されたのは、その約束によって、私たちが神のご性質にあずかる者となれるためであると、彼は言っています。

これはどういうことでしょうか?

これが意味するのは、罪人が家に帰るとき――すなわち、救いの信仰をもって、悔い改めてキリストを信じるとき、神は、この罪人だった者の胸に、ご自身の性質の一部分を埋め込むということです。このとき、神の中にある神の性質と、罪人の中にある神の性質は、異質なものではなくなります。二つはひとつになり、そして、この罪人は家に帰ったのです。不一致はなくなり、似ていなかった部分は取り去られ、そして、人の中の神の性質が、神と人との交わりを自然なものとします。

2021年7月24日土曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】 7月24日:両面交通

7月24日:両面交通

するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

この不確実な時代にあって、信仰と不信仰のあいだの往来は、聖書が予告したように、悲劇的なほど混み合っています。しかし、この往来は、不信仰の方向にばかり向かっているのではない――時には逆に進むことを知れば、心も励まされるのではないでしょうか!

時おり、応用心理学と安っぽい詩歌の混合物に胃痛を起こした『進歩的な』人たちが、み父の家に帰る放蕩息子のように、こちらに戻ってくるという明るい知らせを聞くことがあります。確かに、正統派から進歩派への動きは、多くの場合、非常にゆっくりとしたものであり、あまりに遅すぎて気付かないほどです。私は、神との霊的な経験をした結果として現代思想を受け入れた人の例を、一度として聞いたことがありません。

2021年7月23日金曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】7月23日:高ぶりの現実

7月23日:高ぶりの現実

主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道・・・・を憎む。(箴言8:13)

人間の高ぶりが持つ危険と偏狭さについて、警告させてください。高ぶりは世界のどこにでもあり、自分を太らせるものならほとんどなんでも、飲み込んでしまいます!

これまで出会った人たちの多くは、絶対にへりくだったりしないと決めているために、神と正しい関係を築くことにはならないだろうと、私は確信するようになりました!

高ぶりは、人間が持つ恐ろしい性質であり、これはイエス様の時代だけでなく、現代においても同じです。

2021年7月22日木曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】7月22日:私たちの神々しい会話

7月22日:私たちの神々しい会話

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。(マラキ3:16)

魂をキリストへと勝ち取ることに熱心なあまり、神とその恵みのこと以外、何も話そうとしないキリスト者たちに、私は会ってきました。

そのひとりは、初期の開拓伝道者で、カナダ人のロバート・ジャフレイです。彼の一族は、トロント・グローブ・アンド・メール紙の社主だったのですが、若いキリスト者であった彼は、家業に加わるよりも、神の召しに従って中国に向かうことを選んだため、相続権を剥奪されました。

この高潔な神の人は、その生涯を中国と南太平洋ですごし、失われた魂を探して、勝ち取ることに捧げました!彼は、病気がちで、糖尿病という障害を抱えながらも、いつも地図を開いては、もっとも困難な場所に敢えて向かいました。彼は、貧しく惨めな人たちを探しては、その中で生活し、いつも神に、『私の民を解放してください』と祈っていました。

2021年7月21日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】7月21日: あなたの電話はお話し中ですか?

7月21日: あなたの電話はお話し中ですか?

私は、「だれを遣わそう。・・・・」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

福音の招きは誰にでも、無料で提供されていますが、多くの人は自分のことで手一杯で、聞くことも心に留めることもしません。彼らは、神からの呼びかけが何かを決める理由となることを受け入れません。その結果、自分は神からの呼びかけなど一度も聞かなかったと言いながら、生涯を終えることになります。

答えは明白です。神はずっと彼らに連絡を取ろうとしてきたのに、この世のものを追い求めることに夢中で、彼らの回線はいつもふさがっているのです。

私たちを取り巻く世界は、アブラハムをカルデヤ人のウルに留めおいたものと同じ拘束衣を、私たちにも着せようとしています。

2021年7月19日月曜日

スポルジョン『信仰の小切手帳』 7月19日:じょうぶな靴

『あなたの靴(かんぬき)が、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。』申命記33:25

ここには、巡礼者のために備えられたものが二つあります。靴と力です。

靴について言えば、荒れた道を旅して、危険な敵を踏みつけるために絶対に必要なものです。裸足では進めません――それは、王家の血筋を引く王子にはふさわしくないことです。私たちが履く靴は、ありきたりのものではなく、どれだけ長く困難な旅路であっても擦り切れない、丈夫な金属の靴底を持つものでなければなりません。私たちには、困難な道中と戦いに応じた守りが与えられます。

ですから、私たちは、蛇を踏んでも、あるいは、竜に足をかけても、傷を負うことを恐れず、大胆に進もうではありませんか。

2021年7月18日日曜日

スポルジョン『信仰の小切手帳』7月18日:荒野の交わり

7月18日:荒野の交わり

『それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。』ホセア2:14

神は、その高潔さのゆえに、私たちが罪に惑わされているのを見ると、愛という、より力強い誘惑を与えようとされます。私たちのたましいを愛するお方が、まず私たちの心を捕らえて、この世の魅惑から目を引き離したときのことを憶えていないでしょうか?主は、悪のわなに捕らわれそうになっている私たちを見れば、これを何度でも繰り返してくださいます。

2021年7月15日木曜日

A・B・シンプソン【天が地をおおう日々】 7月15日

私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(雅歌6:3)

私が主のものであれば、主は私のものです。キリストが私を得ているなら、私もキリストを得ています。ですから、信仰の手をいっぱいに広げ、受け継ぐべきものをすべて求め、備えられたものを使い始めなければなりません。私たちは、この一瞬一瞬、主を、私たちの恵みと力、信仰と愛、勝利とよろこび、すべてのすべてとして受けることが許されています。そして、こうして主を求めるなら、その恵みが私たちに十分であることを知り、すべてを捧げることは、すべてを受けることに等しいことを学び始めます。そう、聖別とは、自分の惨めな人生の代わりに、主を完全に得ることです。そこには、二つの面があります。聖別には二つの人物がいます。その一人は愛する主ご自身です。『わたしは、彼らのために』と、主は言われます、『わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。』私たちが、自分を主に向けて聖め別つとき、主もご自身を私たちに向けて聖め別ちます。そして、その後は、主のいのちと愛と永遠の力のすべてが、私たちの聖別を守り完成させるために、そして、聖別された人生を最大限に用い、活用するために与えられます。こんな救い主に自分を捧げようとしない人がいるでしょうか?もちろん、私たちは今日、はじめに自分を捧げ、それから、これから来る一瞬一瞬が、満たされ用いられるようにと、主に捧げます。

天が地をおおう日々――聖書のみ言葉と生きた真実の365日.アルバート・B・シンプソン

Days of Heaven Upon Earth - A Year Book of Scripture Texts And Living Truths. By Rev. A. B. Simpson

2021年7月14日水曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】7月15日―悔い改めは稀である

7月15日―悔い改めは稀である

ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカ15:10)

人間は、悪魔に騙され、また、自分の誇りや能力に惑わされているために、この世界が神の宇宙の中で反逆者が住まう場所であることを否定します。そのような人間たちは、この社会が自分から、神の支配を離れ、神の領域から抜け出したことを認めようとしないのです。

それどころか、彼らは、男も女も神の創造物であることを否定します。自分たちには、創造主である神に尽くす義務があることすら否定するのです。

2021年7月13日火曜日

【トウザーの朝ごとの祈り】7月13日―つり合いが取れていない

7月13日―つり合いが取れていない

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。(ヨハネ8:31)

この時代の福音キリスト教会では、ほとんどの人がキリスト者の生涯について偏った見方をしていることを認めなければなりません――はじめに信仰を持つと言う行為に、全てかかっているかのように考えられています。すなわち、ある時点で、キリストを信じるという決断をすると、その後は全てが、『勝手に』に進んでいくというのです。

これは、私たちが福音を伝える中で、聖書の言葉を重んじてこなかったことに起因しています。

2021年7月11日日曜日

スポルジョン『信仰の小切手帳』 7月11日:神から離れない

『また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』ヨハネ11:26

はい、主よ、私たちは、決して死ぬことがないことを信じます。魂が肉体から離れることはあり、それは、ある意味の死ではありますが、私たちの魂が神から離れることはありません。それは、本当の死――罪に脅かされた死――起こり得る最悪の出来事である罰としての死です。

私たちは、それを何よりも確かなこととして信じており、主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは、誰にもできません。私たちはキリストのみ体の各部分です、キリストがご自身の体の一部を失うことがあるでしょうか?私たちは、イエス様と結婚しており、主と死別して、やもめとなることがあるでしょうか?あり得ないことです。私たちの内には、神から切り離すことのできないいのちがあります。そう、聖霊が中に宿っているのに、どうして私たちが死ぬことがあるでしょう?イエス様ご自身が私たちのいのちであり、主が再び死ぬことはないのですから、私たちも死ぬということがありません。主にあって、私たちは一度、罪に死んだのであり、死刑の判決を二度は執行できないのです。

2021年7月10日土曜日

A・B・シンプソン【天が地をおおう日々】7月10日

それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(第一コリント2:12)

福音のもっとも大きな祝福も、もっとも小さな祝福と同じく、価なしに与えられるのです。主に十年、仕えたあとでも、ふんぞり返って、『私は、これまで積んできた自分の経験に頼って生きよう』などとは言えません。よく、こんなふうに言う人がいます、『今、私は救われていることを知っているし、それを感じている。』ここで、私たちは、誤った土台を築こうとしています――自分自身の中の何かを土台にしているのです。恵みとは、受けるのにふさわしくないのに、価なしに与えられるものであると、常に捉えてください。この長く、深く、限りのない川は、無料なんです。河口でも、小さな流れでも同じように無料であり、どこまでさかのぼっても無料で、その尽きることのない水を、誰でも来て飲むことができるし、浴びることができます。

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月10日

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。【ヘブル12:17】

平均的なキリスト者は、ある真実について聞いたら、その真理は自分のものになったと考えます。霊性は、学問とは違います。学問では、教科書を読んで、いくつかの事柄を暗記すれば、その科目を習得したことになります。

しかし、霊的な問題は、そうではありません。

耳で聞いたことばが、あなたの霊的な性質の一部分となるような輝きを与えることができるのは、聖霊だけです。真実が私たちの一部分となるように、私たちの心を開こうと、聖霊は望んでいます。

2021年7月3日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】7月3日

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。【第一ペテロ2:23】

私は心の中でうんざりしています。自分自身のこと、友人たちのこと、また、今日の聖書者たちのことで嫌気が差しているのです。あまりに、自分を中心としたものになっていながら、私たちは、神を讃えることを声高に語り、自慢げに、『これこそ神の栄光だ』などと言っています。

自分が中心になっていることは、どうしたら分かるでしょうか?

2021年6月29日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月29日

しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。【ホセア13:4~5】

神の近くにいたいという願いは、事実、神のようでありたいという願いです。神と同じようになって、完全な交わりができるように――そうして、心と神が、神聖な交わりの中でひとつになれるようにという、贖い出された心の願望なのです。

人が神と似ているところがあるからこそ、神と子どもたちの交わりが、互いを結びつけ、うまくゆくのであり、生まれ変わった子どもたちの中で、もっとも貧しく弱いものであっても同じです。しかし、全く似ていない部分もあり、その違いのゆえに、あるべき交わりが持てないのです。

2021年6月27日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】 6月27日

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。【詩篇31:1~2】

ほとんどのキリスト者は、神学的なキリスト者です。彼らは、自分が救われていることを知っています。誰かがどこかで、彼らに教会名の入った新約聖書を手渡したのですが、神学を正しく理解させるためにそうするのは、悪いことではありません。問題は、彼らが神の存在を感じることなしに、幸せになろうと試みていることです。神の近くにいたい、神が自分の近くにいて欲しいというこの切実な願いは、神の民ならば誰でももっているものです。祈り、歌、賛美の中にも表れています。

2021年6月22日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月22日

私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。【詩篇18:6】

私たちが大いによろこぶべき、聖書の偉大な真理のひとつは、今日、新生したばかりの新しい改宗者であっても、いく分かは神の高潔さに近づいており、それによって、ある程度の一致が与えられているということです。天国とは、全てが完全に一致しているところです。罪が、神と罪人のあいだの不一致をもたらしたのです。

2021年6月20日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月20日

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。【ヘブル10:12~14】

義認とは、罪人を正しい者と宣告することですが、これはその人の外で行われます。義とされても、その義認がその人に起こった全てであれば、それだけで終わりです。義認は、本来、司法の場で行われるものです。誰かが法廷に立って、ある犯罪と関わりがない――無罪であると宣告されても、それで、その人の内面が変わるわけではありません。その人の体重は、前と完全に同じだし、背の高さも変わりなく、髪や目の色も変わってはいません。人間関係も前と違うところはなく、全ての面で、以前と同じ人間です。ただひとつ違うのは、この人は司法的に自由であり、法の前に無罪であると宣告されたことです。

自分が無罪と宣告されたら、誰でもその事実をよろこぶでしょう。しかし、宣告をしたのは、本人ではありません。この宣告は、陪審員の頭の中で、法律に則って行われたものです。

2021年6月18日金曜日

エイデン・W・トウザーについて

エイデン・ウィルソン・トウザー(Aiden Wilson Tozer)は、アメリカ人の牧師、説教師、著述家、雑誌編集者で、霊的指導者。1897年4月21日に生まれ、1963年5月12日に死去した。

トウザーは、ペンシルベニア州の小さな農村ラ・ホセの西部で生まれた。十代のころ、オハイオ州アクロンで仕事からの帰り道、彼は路上の説教者の言葉を耳にした、『どうすれば救われるか分からなければ、神にこう頼むだけでよい、主よ、罪人の私を憐れんでください。』家に帰ると、彼は屋根裏部屋に上り、これを実行した。これがきっかけでトウザーは、キリスト教徒に改宗した。

それから5年後の1919年、正式に神学を学んだこともないまま、トウザーは初めて行った教会の牧師になって欲しいという要請を受け入れた。これは、彼の44年に渡る聖職者としての活動の始まりであり、この後、たくさんの教会で牧師として勤めた。初めて、牧師として働いたのはウェスト・バージニア州ナッター・フォートにある道端の小さな教会だった。トウザーは、シカゴのサウスサイド・アライアンス・チャーチでも30年間、牧師として働いた。キリスト者の生き方を観察して、彼は教会が『この世的の』関心と妥協するという危険な道を歩んでいると感じていた。

2021年6月17日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月17日

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。【コロサイ2:13~14】

放蕩息子は、あまりに辛い日々を経験した後で、ついに自分を取り戻しました。それは、苦しくても、価値のある旅です。我に返ったとき、自分が何をしなければならないか、彼にはすぐに分かりました。

あまりに多くの人が、自分が何をすべきかを知らないために、遠い国をさまよい、父親から遠く離れています。自分が置かれている状況にいら立っているのかもしれません。何をしたらいいのか、探し求めているのかもしれません。我に返って、自分の現実の姿を知るまで、何をすべきか、知ることはできません。

2021年6月16日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月16日

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。【ルカ15:22~24】

放蕩息子が帰ってきたとき、父親は前と変わっていたでしょうか?

放蕩息子が、父に冷たい仕打ちをしても、また、近所の人たちが哀れんで、『ああ、あの息子、可愛そうな年老いたお父さんになんてひどいことを』とうわさしても、父親は、全く変わっていなかったのです。この父親は、屈辱を受けて失望し、嘆き、心を痛めていたのですが、息子が帰ってきたとき、前と何も変わってはいませんでした。

2021年6月15日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月15日

弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。【ルカ15:12~13】

多くの人が、放蕩息子のたとえを説明しようとしてきました。彼を、背信者と呼ぶ人がいます。彼を、罪人と呼ぶ人もいます。しかしながら、神が罪人のことで、『この息子は、死んでいたのが生き返った』と語るところを想像できるでしょうか

どちらも受け入れられなかったので、私は、神のところに行って、願いました、『神よ、お示しください。』

2021年6月14日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月14日

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。【ルカ15:17】

おそらく、すべての書の中でもっとも偉大な物語のひとつが放蕩息子の話でしょう。

二人の息子のうち、弟は退屈な生活に飽き飽きしてしまい、遠い世界に憧れて、冒険と興奮を求めるようになりました。彼は、財産の分け前を受け取ると、外の世界に出てゆき、毎日を遊興の中に暮らしました。彼がどのくらい、そんな生活を続けたのかは分かりませんが、結局、豚の世話をして生活するほどに落ちぶれてしましました。これはユダヤ人の男性にとっては、最下層の仕事だったのです。

2021年6月7日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月7日

あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らない。【申命記10:17】

神について考えるときに考慮すべき、もっとも大切な点として、神は決して、いら立つことがありません。人間は、いら立つものであり、それには理由があります。私たちは無限ではありません。しかし、神は、何に対しても、誰に対しても、どんな時も、いら立つ理由はありません。

神がいら立つことがないのは、限りのないお方だからです。無限であるからこそ、神は、常に神で有り続け、決して、変わることがありません。神なるものは、すべてが完全な調和のうちにあります。その全てを、神は永遠の御子に授けてくださいます。

2021年6月4日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月4日

ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。【ローマ5:15】

ジョン・バニヤンは自叙伝を書き、その書を『罪人のかしらに恵みが満ちる』と名付けました。バニヤンは、この題が、まさしく自分の人生を現していると思っていました。彼は、神の恵みを受けるのに、自分ほどふさわしくない者はいないと信じていました。実際には、ふさわしい人などいなかったのです。しかし、彼は、自分の罪を深く思い、自分を救い出したのは神の満ちあふれる恵みに他ならないと感じていました。

2021年6月2日水曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】6月2日

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。【箴言3:34~35】

誰であろうと、過去に何をしていようとも、すべての人は神の恵みのもとに置かれています。しかし、誰もが神の救いの恵みを経験するわけではなく、ここに、大きな違いがあります。神の恵みはすべての人に及ぶのですが、その恵みが、イエス・キリストへの信仰を通して働くときに初めて、新生が起こります。

すべての人がこの恵みを経験するわけではありません。それでも、神は、ご自身の思いやりで、誰に対しても、悔い改める機会を与えるまで、下されるべき裁きを留め置かれます。

恵みとは、神の優しさです。神の心にある思いやりであり、神の好意であり、心からの愛です。神が、どのようなお方かということを表すものです。

2021年5月30日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月31日

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。【ヘブル4:16】

神の購いは、慎重に練られ、考え抜かれた大昔からの計画に沿って、キリスト・イエスの中に実現されました。

恵みは、キリストが飼い葉桶で生まれたとき、洗礼を受けたときや聖霊を注がれたときに、もたらされたのではありません。主が十字架で死んだとき、死者の中からよみがえったときやみ父の右の座についたときに生じたものでもありません。

2021年5月27日木曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月27日

あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。【出エジプト記15:13】

旧約聖書には、哀れみについての記載が、新訳聖書の四倍もあります。一方、奇妙で驚くべきことに、新約聖書では、旧約に比べて、恵みについて、三倍以上もふれられています。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したと書かれています(ヨハネ1:17を参照)。キリストは、恵みが流れ出る祝福された管ですが、その意味が誤解されることがあります。残念ながら、非常に多くの人が誤解しています。

よい信仰を持った人たちでさえ、ここを誤解しやすいのです。多くの人々が、これを、モーセは律法しか知らず、キリストは恵みしか知らなかったと言う意味に捉えています。私たちの父たちはそのように教えていないし、清教徒の書物、ジョン・カルビンや有名な信仰復興論者、改革者たちの著作にも、そんなことは書かれていません。

2021年5月25日火曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月25日

主ご自身がこう言われるのです。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。【ヘブル13:5】

世の中には、心を慰め、気持ちを和らげるための心理療法や治療がいろいろとあります。辛い思いをしている人を慰めようと試みることは何も悪くありませんが、それが行き過ぎることがあるのです。

私は、人間の立場から慰められたいとは思いません。心の中にある、不義を誰にも軽々しく扱って欲しくないのです。神の前に自分が砕かれるままにすれば、その砕かれた残骸から、神の力と臨在が生まれます。神の臨在こそ、私が日々、切望するものです。

自分を神のみ前に投げ出すその恐ろしい時間、家族も友人も私を助けることはできません。創造されたのではない存在が私のむき出しの霊に迫るとき、人からの助けは何の役にも立ちません。

2021年5月21日金曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】5月21日

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。【エゼキエル14:6】

私が、自分では乗り越えられないもの、頭を垂れて、日々、ざんげの祈りを捧げるものとは、私自身の不義です。

私は、自分が生まれ変わったことは知っています。自分が天国に向かっていることも知っています。イエス・キリストが、私の多くの罪のために十字架で死なれたことも知っています。

私の心の奥深く、自分の不義に苛立つ気持ちがあります。この聖なるお方をよりよく知るほど、私の不義は恐ろしいものになってゆきます。私が自分自身を、神が見るように見つめ、そして、主の目、その聖なる目を通して私自分を見始めるとき、私は、自分の不義を、神が感じているのと同じように感じるようになります。