2021年12月29日水曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第11回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十一回会合—『主の臨在:「主が私たちとともにおられる」』
Meeting 11 - The Presence of the Lord: "The Lord is With Us"

第十一回会合
(1964年2月8日午前)

引用聖句、出エジプト記25:8、ヨハネ1:14:
『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。)この方は恵みとまことに満ちておられた。』

人のあいだに住みたいという神の大いなる願いについて、今朝も話しを続けます。私たちの個人的な生活において、主の民としてともに生きる生活において、主のためのすべての働きにおいて、何よりも大切なことは主の臨在であります。主の臨在ほど重要なものは、他にありません。私たちは、そのことについて、いつも祈っているので、その大切さはよく理解しているはずです。私たちは毎日、主がともにいてくださるように祈っています。会合に集まったときも、主がともにいてくださるように祈ります。何かしら、主の奉仕に出かけるときも、主がともにいてくださるように祈ります。しかし、どれだけ祈っても、祈るだけでは主の臨在は確実なものにはならないことを、私たちはほとんど理解していません。私たちは、主の臨在を求めて、昼も夜も休みなく祈り、幾夜も続けて祈ることがあります。そして、主の臨在を求めてこれだけ祈るのだから、主が臨在されることは間違いないと考えるかもしれません。それは、私たちがどれだけ祈るかかというだけの問題ではありません。主の臨在は、その対象が主にふさわしいかどうかによって決まります。主が臨在するように祈っても、その対象が間違っていれば、主の臨在はありません。

全ては、それが主の臨在にふさわしい状況であることにかかっているのです。主は人とともにはおられないという感覚があります。主は御子とともにのみ、おられます。そして、主が臨在されるかどうかは、ものごとがどれだけキリストに従っているかによって決まります。主イエス様は、『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる』と言われましたが、これは何人かが集まって、「私たちはイエスの名においてここにいる」と言えば、どこでもいいという意味ではありません。そんなことなら、誰にでも言えます。どのキリスト教の宗派もそう言います。イエス様は、『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には』と言われました。イエス様の御名の中に、イエス様の全てがあります。この御名の中に、主ご自身の全てがつまっています。それは、父なる神にとっての主の存在の全てです。そして、父なる神から私たちに向けられた主の全てです。つまり、イエス様の御名の中にあるのです。キリストが何であるかという、その中に見出されるものです。

このことが、私たちを古い時代の幕屋における神の臨在という問題に引き戻します。昨日、私たちは神の霊がベツァルエルとオホリアブを捕らえて、モーセに示された型を実現させたことを学びました。さて、ここには三つのものがありますね。示された型があります。それから、その働きを行う民がいます。その型と民のあいだには聖霊がいます。型は聖霊の手の内にあります。そして、民も聖霊の手の内にあります。そして、聖霊は民に細部に至るまで、型のとおりに実現させます。すべてのことが、示された型に沿って行われるのです。

さて、なぜ、聖霊が人間たちを、生まれたままの自然の土台から引き離して、霊という土台に置こうとするのか分かりますか?それは、人間たちが、自分の自然な理解力や生まれながらの力で、神の働きをしないようにです。神の働きは、聖霊の知恵と力によって行うのです。おそらく、神の仕事に関して、人間が学ぶのにもっとも長い時間がかかることのひとつはこれです。すなわち、神は、何ごとも人間自身の判断にゆだねはしないということです。私たちの中で、この事実を本当に学んだ人は、どれくらいいるでしょうか。

私たちの中には、自分は主の働きに召されたと、最初から信じ込んでいた人もいるでしょう。実際に、そのとおりだったのかもしれません。そうして、主の働きとは何かということについて、私たちは自分なりの考えを持つようになりました。また、その働きに身を捧げるようになりました。私たちは、その神の働きに心と力を尽くします。その働きを自分で組み立てます。そして、参加する人たちを組織します。そして、この人にはこの仕事を、あの人にはあの仕事をするようにと指名しました。私たちは大企業の部長のようでした。そして何年にも渡ってそのようにしながら、本当の意味での霊的な成果はほとんどなかったのです。その成果は、霊的には、非常に小さなものでした。私たちは、大きな何かを立ち上げてきたかもしれません。「あれは非常に成功した仕事だよ」と、人は言ったかもしれません。しかし、今日、その働きを振り返ってみれば、その霊的価値は、実に小さなものであったことに気づきます。価値があるのは、人の数ではありません。仕事の量ではありません。すばらしい組織や団体が作られたことでもありません。主がどれだけその中にいるかということなのです。そして、小さくても主の豊かさで満ちているものの方が、主がほとんどいない大きなものよりも、ずっとよいのです。

さて、ベツァルエルとオホリアブは、聖霊による理解を与えられました。これは、実に重要なことです。聖霊は、神の働きのあり方に強いこだわりを持っています。もし、私たちが自分の働きにおいて、本当に御霊に導かれていたら、どれだけ多くの問題や時間の浪費を避けられることでしょう。

私自身の経験から例を挙げて、ご説明します。何年も前、明らかに主が何かの働きをされていたときのことですが、ある仲の良い男性が私のところに来て、「これは主の働きだと思います」と言いました。この男性は会合に現れました。会合で祈りを捧げたこの人は、他の多くの場所で用いられてきた説教者でした。私はある時、この兄弟に働きに参加してもらうのは良いことかもしれないと思いました。私は、彼に説教をしてもらうように頼みました。そして、彼は説教をしましたよ。それから、彼にまたお願いし、この人は次第に働きの一部となってゆきました。しかし、その兄弟が私たちと同じ物の見方していないことに気づく時が来たのです。神の働きをしていた私たちは、非常に深遠な経験をしてきました。私たちは、間違いなく十字架の働きであるものを、見極められるようになっていました。主の十字架は、説教や組織に関する私たちの古い考えを、完全に打ち砕いてのです。さて、この親愛なる兄弟は、その同じ道を歩んでいませんでした。彼は、根元から育ってきた人ではなかったのです。外側から加えられた人でした。本物の根本的な啓示を、彼は受けていませんでした。だから、彼は説教者、聖書の先生に過ぎなかったのです。何年も経って、私がこう言う時が来ました、「ああ、あの兄弟を連れてきたのは大きな間違いだった。」彼が去っていく日が来たのです。彼は、何か別のことを始めようとしていました。そして、私たちは彼をまだ愛してはいたし、彼の中に主を認めることも多くあったのですが、しかし、彼が働きの中心に入ってきたことで、私たちのあいだに、非常に大きな問題と心痛が生まれました。そして、彼が去ったときも、多くの困難が引き起こされました。

しばらくして、別の兄弟がやってきました。その頃、私はまだ、非常に大切な教訓を学んでいませんでした。彼は親愛なる兄弟で、本当に主を愛していました。彼は、その時すでに伝道者だったのです。聖書を教えたこともありました。しかし、彼は孤独な男でした。ある日、彼は私のところに来て言いました、「私は、何かの集まりに属していたいと感じています。自分の伝道活動の近くにいて、外に出てゆくときには祈ってくれる人たち、一緒にいて霊的な交わりを持てる仲間たちが必要なんです。」ああ、彼に同情し、兄弟を助けたいと思った私は、言いました。「兄弟よ、あなたに必要なものを差し上げます。私たちはあなたの周りに集います。あなたのために祈りましょう。私たちの中に、必ずあなたの居場所が見つかりますよ。」彼は根から成長した人ではありませんでした。彼は、とても良い果実だったかもしれません。しかしながら、根から育った実と、誰かがよそから来て木に結んだ実は違うものなんです。さて、その兄弟には、何ひとつ非難すべき点はありません。しかし、彼を連れてきてしまったことを本当に残念に思う日が、やがて来てしまいました。彼もまた、どこかへ行ってしまい、何か別のことを始めようとしました。そして、そのせいで私たちはたいへんな思いをしました。私たちは、彼をとても愛していますし、彼には何の落ち度も見当たりません。

しかし、そこは神が働く場だったんですね。そして、その働きに関わるのは、内側から出てきた人でなければならなかったのです。誰も、この人とあの人というふうに、自分の考えで人を選んで、仲間に入りなさいとか、私たちと一緒に働きなさいなどと言うことはできません。神があなたがたとともに行っていることの中にいる人でなければなりません。神の働きとは、有機体(organism)であって、組織(organization)ではないのです。そして、すべては根から成長したものでなければなりません。私が言いたいことを分かっていただきたいと思います。すべてが御霊の中にあって、人間の判断によらないことが、とても大切なのです。

これまでの朝の会合では、はじめに、パウロの最後の手紙であるテモテ第二の手紙は、神の家にあるものを正すために書かれたことをお話ししました。そこでパウロが正したことのひとつが、神の家の長老たちでした。当時、この長老たちが、既に教会の組織化――すなわち、人間が教会の幹部(official)を任命すること――につながる状況を生み出していたことは明白であると思います。皆さんには、幹部と生きた有機体の違いを理解できるでしょうか。この違いが分かりますか?私たちの体の中には有機体がありますよね。その有機体を公式(official)の名前で呼んだりはしません。それは、生きた有機体であるというだけです。有機体は生命によって機能しています。私たちは、「さあ、この体には心臓が必要だ。どこかへ行って心臓を見つけて来よう。見つけたら、正式の名前をつけて体に入れよう」などとは言いません。そんなことを言わなくても、心臓は、ひとまとまりの有機体の中から成長するものだからです。さて、新約聖書の時代の終わりに、このような組織化が始まり、人間たちは、長老を主教、大僧正、助祭などと呼び始め、最後には法王と呼ぶようになりました。

実は、この状態は、パウロの伝道活動が終わる前から始まっていました。そして、パウロはそれを正すためにテモテへの手紙を書いたのです。パウロが言おうとしていたのは、事実上、こういうことです、『教会の長老たちはただの幹部ではありません。彼らは、知識を持った人たちだから選ばれるのではありません。裕福だから選ばれるのではありません。世に影響力があるから選ばれるのではありません。成功した実業家として有名だから選ばれるのでもありません。長老たちは、長老と呼ばれる前から長老なのです。』分かりますか?大切なのは、名前ではないのです。その人が何であるということです。そして、その人が何であるかということは、中に主がどれだけいるかことに他なりません。その人が何であるかということを決めるのは、主の臨在です。そうしたければ、名前など取り去っても構いません。そのような名前は、便宜上、使っているだけです。その名前は、はじめには意図していなかった意味を持つようになりました。教会の長老たちは、霊的な人間であって、それ以上でも、それ以下でもありません。繰り返しますが、大切なのは、その人の中にどれだけ主がおられるかということです。

私は、新約聖書に忠実であろうとしています。冒頭には、このように書かれていました、「あなたがたの中から、御霊に満ちた人たちを選びなさい。」これが、人の価値を決めることだったのです。助祭であれ、長老であれ、使徒であれ、人間にとって大切なのは、聖霊に満たされているかということでした。聖霊はすべてをキリストに合ったものに整えてくださるのです。そして、私たちが真の長老に出会うとき、私たちがまず会うのは、ただの人間、誰か重要な人、非常に力のある人、すべてを手中におさめた人ではありません。私たちは、主イエスに会うのです。どのようなかたちであれ、私たちを私たちたらしめているのは、それなのです。これは非常に重要な原則です。『よく注意しなさい。あなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』そして、民は実際にものを作ることになったわけですが、それは、聖霊の力によってはじめて、行うことができました。そうしないと、時間の浪費、そして、力の浪費が生じてしまいます。

数年前ですが、私はある世界的な大運動の指導者と長く話したことがあります。その運動は、初期には非常に祝福されて、うるわしいものを感じさせるものでした。神は、ご自身のしもべを起こし、非常に深い経験を通させたうえで、その運動で用い始めました。これは、世界全体に広がる働きとなりました。彼の名前をここで言えば、その名を知っている方はたくさんいると思います。しかし、別にそれが誰か、訊かなくてもいいし、私も話す気はありません。大切なのは、初期の頃は、それは大きな霊的な力であったということです。私は、これは過去百年のあいだに神が行ったことの中で、もっとも霊的なもののひとつだったと思っています。しかし、今日では、初めに持っていた力を失ってしまったのです。その運動は、今も続いており、世界に広がる大きな福音主義運動となっています。世界中に何百という教会がありますが、本来の霊的な深みを失っています。今日では、初期の頃とは全く異なった性質のものとなってしまいました。私が話していたのは、この活動の指導者の一人だったのですが、彼はこの活動の中で霊的ないのちが失われていることを嘆いていました。そのことを、非常に悲しんでいたのです。彼は言いました、「スパークスさん、あなたならどうしますか?」それは、誰にとっても、簡単には答えられないたいへんな質問でした。そこで、私はしばらく考えたうえで答えました、「私ならこうします。指導者たちを全員、一箇所に集め、すべての仕事から直ちに解放して、二~三週間のあいだ、神を待つのです。彼らが、はじめの見方や生き方を取り戻すにはどうしたらいいか、その答えを主に求めるようにお願いしますよ。」彼は言いました、「スパークスさん、あなたの言うとおり、それしかありません。」しかし、彼はその後で、「では、それはできないことです」と言うのです。私が「なぜですか」ときくと、「彼らはみんな忙しすぎるんですよ。それぞれの働きで時間も体力も使い果たしてしまって、霊的な生活を深く強く保つための時間がなくなっているんです。」

このことから、私は、荒野の幕屋についての、もう一つの非常に重要な事実を思い出します。すべて、示された型どおりに作られたというだけでなく、幕屋が完成するやいなや、民は証しに導かれて出発したのです。幕屋は取り壊され、各部分はレビ人の肩に背負わされ、そして、一行は前に進みました。それはとても良いことであると、私たちはそのように考えたいと思います。しかし、少し進んだところで、主は、『止まれ、ここから先には進まず、もう一度、幕屋を立てて、わたしが進めと命じるまでここにいなさい』と言われたのです。このようなことが、何度も繰り返して起こりました。なぜなんでしょうか。私たちは、自分の思いのままに立ち上がって歩き出すことはできないし、そのまま前に進むことも、歩き続けることもできません。主は言われます、「止まれ、わたしは、あなたがたに御子についてもっと多くを知ってほしい。わたしの臨在によってのみ、前進できることを理解してほしい。あなたがたは、この幕屋の周りに集まって過ごすだけではなく、わたしがその中心に臨在していることを知らなければならない。今からしばらくの間、あなたがたはわたしのことだけに思いを向けなければならない。これまでのところ、あなたがたは、前に進むことで精一杯だったが、わたしはここで、しばらくのあいだ、とどまって、わたしのことだけに気持ちを集中するように命じる。」要するに、霊的な進歩は、常に主の臨在の問題であり、また、その臨在が意味するものを私たちが理解しているかどうかの問題だということです。このためにこそ、私たちの人生において、主は折にふれて言われるのです、「とまれ、前に進むのをやめなさい、すべての活動をやめなさい、全ての働きをやめなさい、静まってじっとして、わたしが神であることを知りなさい。しばらくのあいだ、わたしのことだけに心を向けなさい。」前進、霊的な前進は主の臨在によってのみもたらされるものです。

民が約束の地の境界まで来たとき、偵察から戻った者たちに、その土地には背の高い者たちがいることを聞いて、その地に入って攻め取ることを拒みました(民数記十四章)。すなわち、彼らは主に従わなかったのです。その時、主はモーセに言われました、『あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない(民数記十四章二十八~三十三節)。』

モーセがイスラエルの子ら全員にこう語ったとき、民は大いに嘆きました。翌朝、彼らは立ち上がって言いました、『私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。』するとモーセは言いました。『あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。』民は、「私たちは登って行く」と言いました。主は、「行ってはいけない」と言いました。しかし、彼らは、「私たちは、あそこに入るまで進んで行く」と言いました。主は言われました、『わたしは進まない。』そうして、彼らは登って行き、または、進もうと試みましたが、これは、とても悲惨な結果となりました。そして、主が言われたように、四十年の後に、彼らは皆、荒れ野で死にました(民数記十四章四十一~四十三節)。

主なしで進むのは危険なことです。主がともにおられると知ってこそ、私たちは前に進むことができます。ですから、すべての活動において、私たちがしていることの中に主がおられること、自分が主よりも前に出ないようにすることがとても大切です。

主が行かれる時に行かないのは、同じくらい危険なことです。ある日、祭司たちが銀のラッパを鳴らし、「今日、私たちは進みます、今日、主は進みます」と、そのラッパの音で呼びかけたとします。民が、「ああ、そうか、でも、私は行かない。ここから動かないことにする」と言ったとします。そうなると、主が先に行ってしまい、彼らは主のいない荒野に残されることになるのです。次のどちらの場合もあります。主が進んでいるから、私たちも進まなければなりません。主が、『しばらくとどまって、わたしについて新しいことを学びなさい』と言われます。このときは、私たちは待つ備えをしなければなりません。私が、あなたがたにお伝えしているのは、神と共に生きるための基本原則です。

今朝は、ここで終わりにしようと思います。私はたくさんのことをお話ししました。話したことが丸ごと忘れられてしまうようなことがあっては残念です。皆さんに、このことを理解して欲しいのは、これが主の臨在に不可欠な要素だからです。主が望んでおられることは、必ずしも私たちが考えていることと同じではありません。私たちは、自分の思いを、主の臨在へと近づけなければなりません。「主よ、私がこのような場所、あのような場所に行くことは良いことだと思います。あそこでは、私が必要とされていると思うのです。実際、彼らは私を招待してくれましたし、私が行くのはとても良いことだと思います。」あなたが考えるべきことは、それだけでしょうか?私たちは全てを主のもとへと持ち帰って、こう言わなければなりません、「主よ、私がこの場所にいることをお望みですか、今、あの場所にいることをお望みですか?主が望まれる時間から外れると、時間を無駄にすることになります。主は、それが来年、始まることを望んでおられるののでしょうか。今、それをやってしまうと、一年を丸ごと無駄にしてしまうでしょうか。」私の言おうとしていることが、お分かりですか?これが御霊にある生活であり、御霊の中で生活している時にのみ、主は私たちと共にいることができるのです。

さて、私たちは完璧ではなく、間違いを犯します。私は自分が犯した過ちについて話してきました。それは、私の心が主の方を向いていなかったからではなく、私に主を妬む心がなかったからでもなく、キリストの学校で学ぶべき教訓を学んでいなかったからなのです。最初にお話ししたように、私はその学校で学んだ教訓のいくつかを皆さんにお届けしようと思っていました。私は、その教訓を失敗によって学び、苦しみを通して学んだのです。神は、とても実践的なお方です。神は、私たちの手に教科書を渡して、「さあ、その教科書を読んで、そこに書いてある通りに行動しなさい」などとは言われません。ああ、そうであれば、実に簡単でしょうが、神はそうはされません。私たちにとっては、その方が簡単でしょうが、神は経験によって私たちに教えてくださいます。神は、私たちを何らかの状況へと引き入れ、私たちは、そこで神の深い教訓を学ぶのであって、それだけが唯一、私たちが本当に学ぶことのできる道なのです。真の知識とは、経験によって得られる知識です。誰かが教科書を書いて、その教科書を持った人たちがあなたのところに来るかもしれません。彼らは、さあ、これこそ新約聖書の教会の教科書であって、あなたは全てここに書かれている通りに行いなさいと言うのですが、気が付けばあなたは、完全に混乱しきっています。

聖霊が、私たちの教科書であり、すべてをご存じです。聖霊にはすべての原則があり、私たちが経験によって学ぶのは、霊の中で生きているときだけです。しかし、私たちがこれらのことをあなた方に伝えらることには、非常に大きな価値があります。私は、あなたがたに、私が言っているのだからこうしなさいとは言いません。私は、これこそが主の道であると信じていると、言っているのです。ここをしっかり心にとめてください。聖霊に教えてもらい、教えられたことを覚えておけば、私が経験した多くの困難からあなたを守ってくれると思います。しかし、そのすべてはただひとつのこと、すなわち、主の臨在に帰結します。それが、この世界でもっとも大切なことです。『主がともにおられる』と言えるのは、本当にすばらしいことです。

0 件のコメント: