2018年10月16日火曜日

【Daily Open Windows】10月16日

10月16日

こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

私たちの中へとキリストが啓示されるとき、それが、真実で本物の生きた啓示であれば、安定と確実さと自信、驚異と新鮮さと主のいのちへと導き、また、こういったものを生み出しますが、それだけではなく、孤独へと導きます。このことを、あなたにまだ、伝えて、その意味を説明していなかったら、私は不誠実だったことになりますが、これは、キリスト者でさえ、その大部分は今も、伝統に縛られたままになっているからです。彼らはなお、私たちとは違う人たちです。彼らが受けたものは全て、人間たちを通して、または、人間から受けたのです。キリスト教と呼ばれる既に完結して、擦り切れてしまった真実と教えの制度を受け入れてしまった人たちです。彼らは、この制度の中に入り、取り込んでしまったので、その先を見通すことができません。

2018年10月14日日曜日

【Daily Open Windows】10月14日

10月14日

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第二コリント1:8-9)

私たちは、情報のみから本当に生きた学びをすることはできません。これは、自然の道理のひとつです。私たちは、『耐えられないほどの圧迫』を受けることによって、本当の意味で、物事の良い面に達することができるのです。だからこそ、主は長い時間をかけて、霊的な経験を積み上げなくてはいけません。長い時間を経て、目が開かれるとき、私たちはこう叫びます、『ああ、なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう!』しかし、他にどれだけのことをしても全く不十分であるとはっきり理解できるまで、私たちには示していただくことができず、それには、長い時間がかかります。このために、私たちの目が、あの暗闇の時間に、ローマ書、第六章と向けられていたとき、ほとんど、耳に聞こえる言葉で語られたかのように、主は、こう言われていたのです、『私が死んだとき、あなたも死んだのだ。十字架に向かったとき、私はあなたの罪を取り去っただけではなく、あなたをも取り上げたのだ。あなたを取り上げた時、私は、あなたが自分をそう見なしていたような、罪人としてのみ取り上げたのではなく、生まれたままのあなたの姿をすべて受け入れたのであり、あなたの良いところ(?)だけでなく悪いところも、あなたの有能さも無能力なところも、そう、あなたが持っている全ての資質を私は受け取った。私は、あなたを、『働き手』、『説教者』、まとめ役として取り上げたのだ!私の十字架が意味することは、あなたは、自分の考えによっては、私の助けにはなれないし、私のためには何ひとつできず、何かの役に立てるとすれば、それは私から来たものでなければならないということであり、そして、それは、絶対的な依存と信仰の人生を意味している。』

2018年10月12日金曜日

【Daily Open Windows】10月12日

10月12日

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人に も教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。(第二テモテ2章2-3節)

私たちにゆだねられた働きは、それぞれにまったく異なった類いのものであるかもしれません。レビ人の中のある者たちには、こう言ってよければ、他の者より、根本的に霊的な任務が課せられていて、それ自体が聖なる用具というべきものでした。これとは別の面を向いた働きを行う者たちもいました。私に課せられた任務と言えば、それはおもに、主の御言葉を伝えることなのかもしれません。どれだけ多くの人たちが、それこそ、『霊的な責務』であると考えているのでしょう(私は霊的な責務を果たすことが、説教師に限定されているという考え方を断固として拒否しています――これは、霊的な働きに限りません)。ほかにも、商売や家事といった、まったく違った分野で、主のための務めを果たす人たちもいるでしょう。レビ人たちは、それぞれが果たすべき任務の種類に応じて、組に分けられていました。中には、ずっと骨の折れる仕事をしている人もいて、彼らは幕屋の重い横木や天板を扱い、つぼやなべや金の器といった用具を運ぶ人たちより、肉体的にずっときつい仕事を課せられていましたが、それでも、その全てがレビ人の努めであって、全体がひとつの民、ひとつの種族でした。責任が全員に等しく負わされていたのは、全ての部分が集まって、ひとつの責務となっていたからです。同じように、あなた方の世界では、あなたの働きと私の働きは違っていても、そこにあるのはひとつの責務、ひとつの召し、ひとつの責任、ひとつの証しです。ここで重視されているのは、それを引き受けること、それを受け入れること、私たち自身を主の証しにおける責任を持つ者たちと認めることです。

2018年10月10日水曜日

【Daily Open Windows】10月10日

10月10日

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)

私たちは、この事実と向かい合わなければならないし、また、主イエス様との交わりの中に生きようと思えば、私たちは苦しみの道を進むことになるというこの事実を、常に心にとめておくことができるよう、神の助けを求めなければなりません。・・・・私たちにも、腰を落ち着けて、算段をした上で、次の事実をはっきりと心に決める、そのような時が来なければなりません――すなわち、私たちが受けている苦しみが、自分の主との関係から来ていると、その時には、理解できないことは非常によくありますが(その苦しみは、あまりに多岐にわたり、かたちも様々であり、また、多くの場合、キリスト者としての生活とは、まったく何の関係もないようにしか見えません)、それでもなお、私たちが気づくかどうかにかかわらず、神の子供が通る道、イエス様の仲間の通る道は、苦しみの道であるという事実は変わることがありません。あえて言いますが、この事実を心に認めることを、後回しにしたり、遅らせてしまうと、私たちは必ず、この状況が変わることを望み、その時を待つだけの状態から抜け出せなくなります。そして、実際には変わることがないために、意気消沈して、何もかも間違っている、また、主が私たちに敵対しているとか、そのような後ろ向きな思いに捕らわれてしまい、こうして、私たちの証しを破壊する足がかりとして敵が狙っている土台を全部、明け渡してしまいます。

2018年10月8日月曜日

【Daily Open Windows】10月8日

10月8日

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12:5)

ここにある『からだ』ということば、用語は、単なる比喩ではありません。主のみからだの各部分のキリストに対する関係は、実際の身体の私たちの自我に対する関係と同じです――すなわち、それは、自分を明らかにし、思いを表現し、また、何かを伝えるための手段なのです。この真理は、何よりも際立っていて、生活と奉仕のすべての問題の根源にまで至るものです。『主のために働くこと』、また、『主に向かって祈ること』などに関して、そこには、その効果の大きさを左右する、より深い法則があることが分かってくるでしょう。

2018年10月6日土曜日

【Daily Open Windows】10月6日

10月6日

もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(ピリピ2:1-2)

御霊の交わりとは、霊にある交わりのことです。しかし、繰り返しますが、これは、前向きなものです。交わりとは、受け身のものではありません。交わりを受身の姿勢で行ってはいけないのは、あらゆる地獄の住人たちが、交わりを止めるために出てきているからです。地獄が何とか抗おうとするものがひとつあるとすれば、それは、御霊の交わり、神の人々の交わりです。とどまることなく、あらゆる手だてを使って、悪の力は、この交わりを破壊しようと試みるでしょう。それは、この交わりが、彼らの完全な破滅へとつながるからです。このため、交わりが、どっちつかずで、受身の性質のものであることは許されません。あなたは交わりのために戦わなければならず、交わりのために立ち上がらなくてはならず、交わりには積極的であらねばなりません。不和をそのまま放置しておけば、ひどい混乱が起こって、交わりを正しい状態に戻らせまいとする力が動き始めます!あなたの中に御霊があれば――そして、もちろん、私は、御霊を持っているはずの皆さんに向かってお話しています――ご存知のはずです。すなわち、もし、あなたが属しているキリストのみからだなる教会の他の部分との関係がギクシャクしていたら、そこには、実際に肉体で関節が外れたのと同じ痛み、消えることのない痛みが生じます。・・・・

2018年10月4日木曜日

【Daily Open Windows】10月4日

10月4日

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(第二コリント4:10)

私たちのこの身のためによみがえられたキリストの中に、大きな価値があります。主のよみがえりのいのちは、この身体に活力を与えてくれます。それは、今、このとき、この身体を主の栄光の体と同じ姿に変えるためではなく、奉仕へと向かわせるためです。今は死ぬべきこれらの体のために、よみがえりのいのちがありますが、このいのちをどのように用い、選択し、役立てるか、よく考えて決めなければなりません。病にあって、弱められていると感じるとき、座り込んで、こんなふうに言っても、意味のないことです、『ああ、主よ、早く来て、私を救い上げ、そして、私をしっかりと立たせ、回復させてください!』主は決して、そのようにはされません。