2018年8月19日日曜日

【Daily Open Windows】8月19日

8月19日

わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。・・・(黙示録 2:19、20)

ああ、私たちは主への奉仕とは何かということについて、奉仕とは、演台であり、説教台であり、また、野外での会合であるというだけではなく、もっとよく理解すべきです。愛する皆さん、主のための奉仕と言えば、日常生活のありふれた家庭的な出来事の中で、気落ちしている神の子供に親切心から助けの手を貸すといったこともやはり大切であり、このような奉仕も、縁台に登って語る説教と同じくらい貴重なものです。お分かりのように、このようなかたちの奉仕も、主の子供たちの手を強め、大きく膨れ上がって圧し潰そうとする敵を見極め、生活や家庭の中での証しがあると、敵がその証しを圧し潰そうと試みる中で、高く引き上げようと守っています――その証しとは、家庭内の関係、家族の生活、個人的な生活の中で守られている何かです。

2018年8月16日木曜日

【Daily Open Windows】8月16日

8月16日

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2:9、10)

ああ、私たちの耳には、こんなふうにほのめかすささやき声がいつも、聞こえてきます。すなわち、あれやこれをあきらめれば、私たちは敗北するしかなく、人生は貧しいものになり、生活は次第に狭められて行って、いずれ何も残らなくなるだろう、と。これは嘘です!これは、神が私たちに抱いている大きな考えに相反するものです。神の私たちに対する考えとは、ただ一人の方、神の御子イエス・キリストに他ならないお方、その中に神の満ち満ちたご性質が人のかたちをとって宿っておられるこの方が、私たちの中にも満ちていなければならないということです。神の満ち満ちたご性質が、私たちのために、キリストのうちに!主を拒んで、そこに到ることは決してありません。どんな時も、主とともに進んでいなければ、人生は、本来あるべき姿よりずっと小さくなってしまうはずです。そして、私たちが主に自分を捧げ、生活の中で主に対して全面的に、かつ、完全に自分を捨て去って、それとともに、完全に自分を殺しても、その行動の中で得られるのは、主から来ているものではなく、奉仕という範囲の中で生じるものにすぎません。

2018年8月13日月曜日

【Daily Open Windows】8月13日

8月13日

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)

キリストとは、私たちを頑強なものとし、活力を与え、強めるために送られ、生活と奉仕の中で用いたり、また、私たちを価値のある者にするために与えられる第二の人格や力ではありません。それは、考え方ではないし、聖書の見方のことでもありません。それでもなお、ほとんど全世界にわたって、多くはおそらく無意識のうちに、このような考え方が広くまかり通っているのではないでしょうか。キリスト者たちは、キリスト者としてさえ、自分を価値ある者にして欲しいと願っています。そして、キリスト者の働き手と主のしもべたちは、おそらく知らず知らずのうちであるとはいえ、立派な働き手になりたいと強く願っています。そして、彼らは、キリストに自分を強めていただき、後ろから支えてもらって、主のしもべとして、そして、主への奉仕の中で、大きなものにしてもらうことを望んでいます。

2018年8月10日金曜日

【Daily Open Windows】8月10日

8月10日

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。(マタイ24:1)

これを読んで、どのような印象を持ちますか?主イエス様を観光旅行に連れ出して、宮の建物を見せようとしている弟子たち!これが、弟子たちの目が向けられているもの、弟子たちが何より大切と考えているもの、人に感銘を与え、価値があり、偉大で、そして、高貴であるとは、こういうことだと弟子たちが信じているものです。・・・マタイ伝24章を通して伝えられていることは何か、ご存知でしょう。この世的な考えと偉大さの基準に即して、また、宗教的な世界の標準に即してさえ、物質的で一時的とみなされるものが、こうして生きてきた日々の後もなお、この弟子たちの考え方を支配していることに、私たちは気づきます。ここには、深く根を下ろし、凝り固まって、彼らの心から離れない何かがあります。

2018年8月7日火曜日

【Daily Open Windows】8月8日

8月8日

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(第二コリント11:3)

欺きとは、からだの外側から、いやおうなしに、あるいは、自分では気づかないうちに、圧し掛かってくるものではありません。全ての欺きは、その土台を人間の中に持っています。その土台とは何でしょう?人間とは、今、心霊的な存在であることは事実です。さて、あなたも、この事実の根底まで理解し、全てを把握すれば、全体像が見えてくると思います。ここで語っていることの土台は、全て人間とは心霊的な存在であること、そして、サタンが始めに人間に干渉し、自分のたましいに即して生きている人間がその干渉を受け入れると、そのとき、サタンは、自分の支配を受けやすいものへと人間を変えてしまうという、この事実の中にあります。サタンが現れて、自分を人間の支配者として完成させ、力に任せて、人間を自分の圧政に従わせたのではありません。では、どうやったのでしょう?それは、人間の存在の中で、神とつながっている領域、すなわち、霊という領域に、無理やり入り込むことによってでした。『主と交われば、一つ霊となる』とありますが、人が、神との交わりとつながりの中にいたのは、霊という手立てを通してであり、たましいによってでも、体によってでもなかったのです。人のたましいと体は、霊の支配下にあります。私たちの敵、すなわち、欺く者は、人のたましいの中に入り込み、そして、その時、人は、神との霊にある交わりと神の知識に拠って、この敵に対峙することをせず、たましいの部分まで落ち、霊の外に出て、たましいの中でこの敵と向かい合ってしまいました。

2018年8月6日月曜日

【Daily Open Windows】8月6日

8月6日

あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み。(コロサイ1:27)

これは、何を意味しているのでしょう?神の前に出て、こんなふうに言うことではありません、『私は、純粋な動機を持ち続けてきました。私はいつも、とても正直で、熱心で誠実であったし、私の意図は、いつもすべてが最善のものでした。』意味のないことを語るのはやめましょう。こんな言い方をするのは、まったく愚かなことです。私たちは自分自身を知りません。神だけが、私たちの本当の姿を知っておられ、その中に、神とともにあるもの、神に取って値打ちのあるものなど、何ひとつありません。大切なのは、主イエス様の十字架が、よくも悪くも、私を圧し潰し、私を終わらせるものであったことに気づいて、それによって、主の前になにひとつ隠さずにさらけ出しているだろうかということです。私は、神が創造されたあらゆる存在と同じように、最悪のことを行う可能性を持ったものです。誰にとっても、自分が最悪のことをすることなどあり得ないという態度を取れば、それ自体が、何よりも深い欺瞞に満ちた態度ということになります。私たちは、自分の存在の中にある力の大きさを、実際にその力と向かいあうまで知らずにいます。私たちが、最悪の間違いを犯したことがなければ、それはまだ、神の憐れみを受けて、その経験を通されていないということですが、しかし、その経験は必ず、用意されています。主は、その原理原則において、その過ちをはっきりと指し示した上で言われます、『兄弟を憎む者はみな、人殺しです』と。これは、同じ精神です。あなたがすべきことは、ただ、この思いを広げ、この怒りを十分にかきたて、その性質をある状況へと追いやることだけであり、そうすれば、以前の自分であれば、あまりの恐怖に立ち尽くすしかなかったようなことも、今はできるようになったことに気付くでしょう。

2018年8月3日金曜日

【Daily Open Windows】8月3日

8月3日

幻がなければ、民はほしいままにふるまう。(箴言29:18)

教会の現在の状態について、少しでも知っていれば、教会には神のことばを伝えてくれる人たちが悲劇的なほど不足しているという意見に反対はしないでしょうが、しかし、大切な点は、その時々に、伝えられている神のことばは何かという知識こそが必要とされていることです。そこで伝えられることばは、神から来て、その目的のために選ばれた人たちへと送られるものでなければなりません。これは、取り上げられてもいい務めではありません。普通は、そのような責務が与えられるまでには、神と共に歩んだ長く深い人生の歴史があり、それは、謎と苦しみに満ちた人生です。その過程で多くの段階を経るわけですが、そのすべてが、神が御心として許され、あるいは、神が下される命令の中で起こされるものであり、人を教育し、経験を与えることを意図したものであるとは言え、それは決して、既に完成して、整えられた道筋ではなく、そこでは、大きな変化が引き起こされるのですが、その変化のひとつひとつが、新たな霊的な危機によって訪れます。このような器を作るにあたって、人にできることは何一つなく、それは、その器に、どれだけ深い関心を寄せていようと同じことです。これは、ただ神お一人がなされる働きであり、器は神の手にゆだねられなければなりません。・・・