2023年11月20日月曜日

オースティン・スパークス、『わたしたちが一つであるように・・・』第39回会合

セオドア・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合39、『キリストが真に現われるための法則は、死とよみがえりのキリストとひとつになること』

Meeting 39 - The Law of the True Manifestation of Christ is the Law of Death and Resurrection Union with Christ

第39回会合
(1964年3月8日午前)

引用聖句:ヨハネ12章、20~26節

『さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。』

今、読んだ聖句の意味を考えるためには、その背景を知ることが必要です。もう一度、よく見ると、この言葉はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時に語られたことがわかります。エルサレムでは、ユダヤ人の過ぎ越しという大きな祭りが行われようとしており、世界中からユダヤ人がこの街に集まってきました。この祭りのため、あらゆる国を代表するユダヤ人がそろっていました。しかし、この年の過ぎ越しの祭にはいつもとは違うものがありました。それは、主イエス様の地上での生涯における最後の過ぎ越しだったということです。主イエス様が、地上で過ぎ越しの祭りを祝うのはこれが最後でした。この福音書を読み進めると、イエス様が弟子たちとともに、二階の部屋で過ぎ越しの祭りを祝われたのは、この後、まもなくのことであったことがわかります。主が、この場で、『人の子が栄光を受けるその時が来ました』と言われたのも、その意味でした。これは、世界の歴史の中でもっとも偉大な時間のひとつでした。そこで起こっていることの全てが、主イエス様にとって、非常に特別な意味をもっていました。

この過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに来た多くの民族の中に、ギリシャ人たちがいました。彼らがなぜ、イエス様に会いたかったのかはわかりません。しかし、それはどうでもよいことです。イエス様のことは、いたるところでうわさになっていました。誰もが主の成された奇蹟と教えについて語っており、主の名声が広く知れ渡っていたことは疑いがありません。エルサレムに来たとき、このギリシア人たちは、誰もがナザレのイエスという人物のことを語り合っていることに気づきました。そこで彼らは、ぜひその人に会ってみたいと願い、主の弟子の一人のところに来て、『私たちはイエスにお目にかかりたいのです』と言いました。彼らは、イエス様に紹介してもらうよう頼みました。

繰り返しますが、当時のエルサレムにはあらゆる国の人々が集まっていました。その中で、この訪問者だけが、『イエスにお目にかかりたい』と言ったのです。イエス様は、『彼らをわたしのところに連れて来なさい』とも、『わたしが彼らのところに出て行こう。彼らの願いをかなえて、わたしに会わせてあげよう』とも言っていません。主は彼らのところに行って、『さあ、あなたがたが見たいものは何ですか?』とも言いませんでした。主が言われたのは、一見、彼らの望みとは何の関係もなさそうなことです。主が、その場で口にされたのはこの驚くべき言葉、すなわち、『人の子が栄光を受けるその時が来ました』と、主は言われました。『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』

イエス様はこの時、何を言おうとしていたのでしょうか?人々が、『イエスにお目にかかりたい』と言い、イエス様は、『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ』と答えました。これが、答えだったのでしょうか?彼らの質問に対する答えとは、まったく思えません。主は彼らの願いを全く無視しているように聞こえます。まるで、主は別のことを話しているかのようでもあります。主は、ギリシア人たちのことを心にも、とめていないようです。主は、「彼らはわたしに会いたがっているようだ。出て行って、彼らにわたしを現わすことにしよう」とは言いませんでした。主は、「彼らをわたしのところに連れて来なさい」とも言っていません。そして、彼らが来たときも、「さあ、わたしはここにいるから、これでわたしに会えた」とも言ってません。主が言われたのは、ただ、『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。』それでも、その言葉で、主は彼らの質問に答えられたのです。主は、彼らが予想したよりもずっとすばらしいかたちで、質問に答えました。イエス様が本当に言いたかったのは、彼らがわたしに会おうとした方法は、正しい方法ではないということでした。彼らは、わたしをナザレのイエスとしてしか見ないだろう。彼らはわたしを好奇心の対象としてしか見ていない。彼らはわたしを、ただ人々がうわさしている人物として見るだろう。彼らはわたしを、最近のエルサレムで、話題になっている誰かとして見るだけだろう。そして、それはイエス様を見る真の方法ではありません。そこで、主はこの実に不思議な言葉を口にされました。

主が言おうとしたのは、こういうことです。歴史上の人物としてのイエスではなく、肉体を持ったイエスでもない。それは、死とよみがえりのイエスである。あなたがたがイエスを見るべき唯一の道は、「よみがえりの主」、すなわち、死に向かって進み、死に対して勝利し、そして、死に打ち勝って永遠に生きる者として見ることである。そして、今日ここにいる私たちは、主が正しかったことを知っています。私たちは数百人の団体ですが、今日の全世界には、私たちのような人が何百万もいて、それは、主イエス様が今も生きていることを知っている人々、生けるキリストを経験した人々、主は一度、死なれたが、永遠に生きておられることを知っている人々です。

そのような人々が今日、この地上に何百万人もいるのです。イエス様がこの地上おられたときから数えると、天国にはさらに何百万人がいるのか、想像もつきません。ヨハネは、黙示録の中で、このように描写しています、『あらゆる国民のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆――その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった(黙示録7章9節、5章11節。』今日、ここにも数学者の方がおられるかもしれませんが、ここにある数字は、最高の数学者の能力をも超えています。ヨハネは、それを表現することなど全く不可能であると捉えています。万の幾万倍、千の幾千倍、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆。あらゆる国民、部族、国語の人たちがおり、そして、彼らはみな、一粒の小さな麦から出たのです。一粒の麦が地に落ちて死に、そして、その麦は、全能の神の力で、死者の中からよみがえりました。地上と天上の大ぜいの群衆を見るとき、あなたはイエス様をも見ているのです。

このギリシャ人たちは、『イエスにお目にかかりたい』と言いました。しかし、「わたしをそのようなかたちで見てはいけない。あなたがたが本当にわたしを見たいのなら、よみがえりの中で、わたしのいのちが、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆のあいだに広がるところを見なければならない」と、イエス様は言われました、「それが、正しい道、あなたがたが真にわたしを見るべき道である。」エルサレムには、あらゆる国々から人が集まっていましたが、イエス様は、『わたしはあらゆる国の男と女の中に見られるようになる』と言われます。これこそ、ここで示された大いなる真理です。これは非常にすばらしいことですが、もちろん、大きな挑戦でもあります。それが、語るものとは何でしょうか?それが語るのは、ただ私たちが主イエス様とひとつになっていれば、主の姿は、私たちを通して現れるということです!

主は、天にあっては、確固たるお方として存在されていますが、この世に関する限り、そして、永遠という問題に関する限り、主は、ただご自身を信じる民の内に見ることができるだけです。それがどんなに困難なことかお分かりでしょうか?この世で、『イエスにお目にかかりたい』と思う人たちは、エルサレムとか、世界の中の特別の場所に行けば会えるということになりません。彼らの問いに答えるのは、私たちです。その人たちは、私たちのうちにイエスを見ることになります。人々が、あの男の中、あの女の中に、「私はイエスを見た。あのキリスト者の一団の中に、私はイエスを見た」と言えるようでなければなりません。私も以前は、「イエスに会いたい」と言っていましたが、今では、主ご自身の子供たちの中に、イエス様を見るようになりました。イエス様がご自身を世に示すには、あなたを通して、そして、私を通して行う以外にはないのです。そして、私たちが主の民としてここにいる唯一の目的は、イエス様を世に現わすことであり、イエス様を見たいと思う人がいれば、私たちの中にイエス様が見えるようになることです。

イエス様がここで、ご自分のことから、他の人たちのことへと、すぐに話を移していることにお気づきですか?はじめに主は、ご自身が一粒の麦であると言われています、『人の子が栄光を受けるその時が来ました。』――わたしは、一粒の麦です。その後、主はすぐに他の人たちへと話を移し、『自分のいのちを愛する者はそれを失う』と言っています。主は、私たちをこの事実へと引き入れています。主は一人ではありません。主は、私たちをご自分のもとへと召すことによって、ご自分を世に現わそうとされるのです。その上で、私たちがこの主の現れ方の法則に注目するのは、主にとって真実であったことは、私たちにとっても、真実でなければならないからです。そして、ご自身が真に現れる道は、死とよみがえりを通してであると、主が言われるなら、それこそが、『自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです』と言うことばの意味です。すなわち、主は、私たちも、主が進まれたのと同じこの道を行かなければならないと言われています。私たちは、主とひとつになって、死とよみがえりの道を歩まなければならないのです。これが、主の現れの法則です。つまり、主に対して真であったことは、私たちにも真実でなければならないのです。

私は今、肉体の死のことを語っているのではないし、墓地に埋葬されて、いつの日かラッパが鳴ったときに死者の中からよみがえることを話しているのでもありません。ここで、話したいのはそのことではありません。この死とよみがえりは霊的な経験です。これは、すべての真の信仰者の人生に起こらなければならない経験です。使徒パウロがローマ人への手紙の第6章に書いたことを、ご存知の方も多いでしょう。彼は言いました、「私たちはキリストとともに十字架につけられました、すなわち、キリストが死んだとき、私たちも主とともに死んだのであり、私たちは主とともに葬られました。主が葬られたとき、私たちは主とともに葬られたのです。私たちは、主とともによみがえったのであり、私たちは新しいいのちのうちに歩んでいます。」それは霊的な経験です。これが、ひとりひとりのキリスト者の生活の基盤に置かれていなければならない真実であり、そして、親愛なる友人の皆さん、私たちがそのような経験をするまで、イエス様は絶対に見えてきません。その道を歩んでこそ、私たちはイエス・キリストを啓示する者となります。イエス様が見えるのは、十字架につけられた男たち、女たちを通してです。キリストの真の現れの法則とは、死とよみがえりにおいてキリストとひとつになるという法則です。

この一粒の麦に話を戻しましょう。イエス様は、自分がその一粒の麦であり、それは地に落ちて死ぬと言われました。それは、何に対して死ぬのでしょうか?一週間か、二週間の後に地面を掘り起こして、地に落ちたその麦を探したら、どうなっているでしょうか?十分の九は消えてしまっているでしょう。それ以上の麦を見つけることは、まずできません。そこに残っているのは、ほんのわずかな胚芽だけであり、はじめにあった麦の粒の非常に小さな一部分にすぎません。他の部分は、すべてなくなっています。消えてしまった部分は何なのでしょうか?そう、腐敗する性質を持つ部分が、すべて消えてしまったのです。そして、死ぬことのできない部分だけが残ったのであり、それは、再び生き返る部分です。消えてしまった十分の九とは何でしょう?あなたが自分自身のことを多少なりとも知っていたら、それがあなた自身を表していることがよく分かるでしょう。私たちの存在の大部分は、生まれながらの自分です。すなわち、『生まれながらのいのち』、新約聖書では、『肉』と呼ばれる部分であり、イエス様の死によって、この生まれながらのいのちは消え去らなければなりません。その目的は、キリストの真のいのちが死者の中からよみがえること。つまり、キリストとともに死ぬこと、キリストとともに十字架につけられることによって、生まれながらのいのちが死に渡されます。生まれながらのいのちは、イエス様の墓に葬られました。

使徒パウロが、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる(ガラテヤ2:20)』と言った意図を、私たちは知っています。『もはや、私ではなくキリスト。』私はキリストとともに死んだのであり、そして今、私のうちに住むキリストがいる。そして、キリストがあなたの内、私の内に生きておられるなら、他の人々もイエス様を見るようになる。つまり、イエス様を見る法則とは、死とよみがえりにおいてイエス様とひとつになることに他なりません。それは、生まれたままのいのちの完全な死です。さて、その時、この小さな一粒の麦はどうなるでしょう?その麦は、ほとんどの部分を失ったのですが、そのとき、小さな種の中にある生命は解放されています。もはや、世にあるものの束縛を受けることはありません。もはや、世に縛られてはいません。もはや、生命が受けるどのような制限にも、束縛されることはありません。死を通して、この生命は解放されます。囚人が解放されるようなものです。

変貌の山で、モーセとエリヤがイエス様に語りかけていたこと、この二人が主に何を話していたかを思い出してください。皆さんは、そのことにあまり注意を払っていないかもしれない。皆さんは、主の姿が変わったことはご存じです。そして、モーセとエリヤがそこにいて、主に語りかけていたと書かれていることもご存知でしょう。しかし、皆さんは、彼らが語り合っていた内容については、気に留めていないでしょう。聖書には、二人が主に何を話していたかが書かれていますが、残念ながら私たちの翻訳には、それが抜けています。原語では、彼らは、主に向かって、主がエルサレムで成し遂げようとしていた脱出(exodus)について話していたと書かれています。旧約聖書を知っている人なら誰でも、旧約における脱出が何を指すか、よくご存じです。旧約聖書には出エジプト記(Exodus)という名のついた書物があります。それは、エジプトでの奴隷生活からのイスラエルの民の解放を描いた書物です。神は彼らを束縛から解かれました。彼らは自由な民として脱出し、解放の歌を歌いました。彼らは、「私たちは、ついに抜け出した。私たちは脱出を成し遂げ、自由になった」と言うことができました。彼らは、束縛から解放されたと歌うことができます。さて、この脱出という言葉は、変貌の山で使われた言葉と同じものです。モーセとエリヤは、主に対して、主がエルサレムで成し遂げようとしておられる脱出のことを話していました。主の十字架が、主の脱出、すなわち、すべての束縛からの主の解放となろうとしていました。よみがえりの中で、主は自由になります。主の内にあったいのちが、解放されるようになります。

ここで、一粒の麦に話を戻します。麦は土に落ち、死んで、いのちが解放され、上に向けて、そのいのちが伸び始めます。土を破って小さな緑の芽が出てくるのが見えるでしょう。そして、その芽は育って、育ち続けて、穀物がぎっしり詰まったすばらしい固まりを形成し始めます――穂と呼ばれるものです。この穂を手にとってみましょう。そこには、何があるでしょうか?一本の穂に、一粒ではなく、五十粒、あるいはもっと多くの粒が付いています。今度は、その一粒一粒を手に取り、地面に落として死なせてみましょう。五十の粒があれば、それは、五十の五十倍に増えます。そのように続けていけば、これが世界中に広がっていきます。世界に広がるこの証しはすべて、一粒のいのちの解放から生まれたものです。何百万もの穀物の一つひとつをじっくり見れば、元の一粒にあったのと同じいのちが見つかります。つまり、これは、キリスト者の数が増えるというだけの話しではなく、キリストのいのちが一人ひとりの中に再生されるということなのです。主の死とよみがえりによって、主のすばらしいいのちが解き放たれ、そのいのちがひとりひとりの真の信者に宿りました。イエス様は言われました、『わたしが来たのは、彼らがいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』主がこの世に来られたのは、この特別な目的のためでした。このために、私たちの内にも主のいのちがあり、そのいのちが主を世に現すようになります。

しかし、さらに詳しく見てみましょう。イエス様を見るための法則は、犠牲の法則でもあります。イエス様は言われました、『自分のいのちを守る者』――自分のいのちを自分だけのもとにとどめたり、自分のいのちに固執したり、このいのちは私のものだと言う人がいます。これは私のものだ、他の誰にも渡さない。『自分のいのちを守る者はそれを失う』と、イエス様は言われました。『それを失う者』――あるいは、進んで手放す者――『は、それを見出し、永遠のいのちに至るのです。』そこにある法則は、犠牲という法則です。キリストのために、私たちのいのちを手放すという法則です。この世であなたに与えられた召しを知りたい思いますか?神が、あなたを創られたその真の目的を知りたいですか?キリストがあなたのために死んでくださった、その真の目的を知りたいですか?神が、あなたに何をさせようとしているか、知りたいですか?実際に、神はあなたに対して、何かをさせたいと願っておられます。主は、ある大きな目的のためにあなたを召されたのであり、あなたがた一人一人は、神の計画の中で何かの位置を占めています。神の御心の中には、あなたの人生に関わる目的があります。キリストの中へとあなたが召された目的があります。それが何なのか、あなたは知りたいですか?キリストがあなたを何に対して召されたのか、知りたいですか?さて、ここに法則があります。自分の人生にしがみついているあいだは、それを知ることはできません。イエス様は言われます、『自分のいのちを失う者はそれを見出す』、すなわち、わたしのためにいのちを捨てる者は、自分が生きる目的を見出す。

さて、イエス様の弟子たちは、自分たちの人生には、非常に大きな意味があるものと考えていました。彼らは、生きていく上で、自分なりの野心を持っていました。彼らがイエス様に言ったことがあります、『あなたの御国の位にお着きになるときには、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。』そして、ある日、彼らは言い争いを始めたとあります。イエスの弟子たちが言い争っているところを思い浮かべてください。彼らは本当に熱く論じ合っています。一人は違うと言い、そして、もう一人は、そうだと言っていますが、彼らは何について論じ合っているのでしょう?天の御国では誰がいちばん偉いのかということです。

彼らは間違いなく、御国とはこの世のものであり、自分たちはその御国で重要な地位についていると考えていました。彼らは自分自身と人生に対する野心を持っていました。自分たちがどうなりたいか、何をしたいかということに対して、彼らは自分なりの考えを持っていました。しかし、イエス様の十字架の後の彼らを見てください。あの十字架は、この弟子たちに非常に強烈な一撃を与えました。その前に持っていた考えはすべて消え去り、彼ら自身の個人的な野心もすべて消え去り、そして、今では、ただキリストのために生きたいと思うようになりました。こうして、弟子たちは、使徒たちとなりました。この一地方だけの存在から世界に広がるものになり、特定の時代に生きるものから、永遠に続くものになりました。二千年が経った今も、私たちは彼らについて読んでいます。私たちにとって、彼らは今も価値ある存在です。世界が、これからさらに二千年続いた後でも、それは同じでしょう。もちろん、あと二千年は続かないかもしれませんが、この世界が続く限り、この男たちの人生の価値は、あらゆる場所に住む人々のもとに伝わっていくでしょう。

彼らはキリストのために野心を手放しました。キリストの計画を実現するために、自分自身の考えや計画への執着を捨て去りました。主イエス様の御手に完全に自分をゆだねたとき、彼らは真に人生を捧げるべき働きを見つけました。それは、彼らが主にこう言ったときです、「主よ、私の道ではなく、あなたの道を、私の願いではなく、あなたの願いを、私の人生の計画ではなく、あなたの計画を、私の野心ではなく、主よ、あなたが私の人生に望んでいることを。」

だから、私たちは、ただ何年も人生を生き、墓に入るだけのありきたりの人間であることをもうやめます。私たちの人生にも、このすばらしいことが起こります。イエス様が見えます。イエス様が私たちを通して生きています。生きる目的として、これよりも大きなものなどないし、そして、この世界でイエス様を見たいと渇望している人がいるとき、心の中で、『イエス様を見たい』と本当に言っている人がいるとき、神の霊が、その人に何をするか、分かりますか?イエス様は、天からその人のところに降りては来ません。主は、その人に向かって、『わたしはここにいる』とは言いません。主は、その飢えた魂をあなたのところに導かれます。ご自身を知りたいと願っている人たちを、主はあなたのところへと連れてきます。主は、あなたをその人たちのところに導きます。新約聖書に、そのような例がたくさん書かれていますね。

ある男が、馬車に乗って砂漠を旅していました。彼はエルサレムで開かれた祝宴に出席してきたのですが、心はまだ飢えていました。エルサレムのどの宗教も、彼の心を満足させてはくれなかったのです。この男は、祭司たちの話しをを聞きました。生贄が捧げられるところも見ました。神殿を埋め尽くす群衆も見ましたが、彼は失望して、その場を去り、自分の国に帰るところでした。彼の心は飢えたままです。いろいろな宗教も、彼の心を満足させることができず、馬車の中に座って、遠く離れた自分の国に帰る途中、彼は旧約聖書を読んでいました。この男は、イザヤの預言書を読み、第五十三章にさしかかったところでした。彼はその章を読んで、言いました、『これはいったいどういう意味なんだろうか。この預言者が何のことを言っているのか理解できたら、私は何を捧げてもよい。』

この人が、心を神に向けたまま、旅を続けているあいだも、神はその飢えた心を知っておられ、そして、神は少し離れたところにいた別の男を捉えました。神は、その男に、「あの砂漠に進みなさい、そこであなたにやってもらいたい仕事があるのだ」と命じました。男は、自分は何をしに行くのかさっぱり分からなかったのですが、主のことばに従って、サマリアから、はるばるこの砂漠まで旅をしました。そして、この導きの目的が何なのかと思っているところに、この馬車が近づいて来るのが見えました。そして、主は、『あの馬車に近寄って、中に入りなさい』と言われました。近づくと、中の人が聖書を読んでいるのが聞こえたので、彼は、『あなたは、読んでいることがわかりますか』と尋ねました。中にいた男は答えました、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう。この預言者は誰のことを語っているのですか?』

そこで、ピリポは口を開いて、同じ聖句を読み、彼にイエス様を宣べ伝えました。こうして、その人も書かれたことを理解し始め、とある水辺に差し掛かったとき、彼はピリポに言いました、『ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。死んで葬られ、よみがえられたこのキリストと、私がひとつになることに、何かさしつかえがあるでしょうか?』ピリピは答えました、『あなたが心から信じているなら、何のさしつかえもありません。』その人は、はっきりと、『はい、心から信じます』と答えました。ふたりは水の中へ降りて行き、ピリポは彼にバプテスマを授けました。この話しは、このように終わります、『そして、その人は喜んで帰って行った(使徒8:26~39)。』神は、飢えた心がどこにあるか、ご存じです。神には、主イエス様を知る人々が必要です。そして、神はその人たちをひとつに集めます。

おそらく、あなたも飢えた心そのものなのでしょう。宗教では、満たされなかったのでしょう。あなたは今も、イエス様に会いたいと望んでいるかもしれません。主はあなたの前に誰かを連れてこられます。主は、あなたの心が飢えたままにならないように、手を差し伸べてくださいます。主は、あなたを助け、キリストの本当の体験へと導いてくれる誰かが、あなたと出会うように手配してくださり、そして、あなたも喜んで帰って行くようになります。あなたが、この馬車の男と同じように、主イエス様を心の底から信じ、そして、自分の人生の全てを主イエス様に明け渡すなら、世はあなたを通してイエス様を見るようになります。

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