2023年11月23日木曜日

オースティン・スパークス、『わたしたちが一つであるように・・・』第40回会合

セオドア・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合40、『主の杯』
Meeting 40 - The Cup of the Lord

第 40 回会合
(1964年3月8日午後)

第一コリント、10章16節を開いてください。『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。』11章25節、『夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。」』私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。この杯は、わたしの血による新しい契約です。これまで、皆さんと一緒に、何回か主の聖餐にあずかってきた中で、私は、この聖餐について、完全でより深い真実を語りたいとずっと願ってきました。そして、今夜ぜひ、そのお話しをさせてください。

主の杯について少しだけお話をしたいと思います。はじめに読んだ二つの箇所で、杯について二つのことが語られています。第一に、それはキリストの血にある交わりです。実際に語られた言葉は次のようなものです。それは、私たちがキリストの血を共有することではありませんか。つまり、第一に、それは、私たちが皆がキリストの血の中に持っているもののことです。そして、二番目に、この杯はキリストの血による新しい契約です。はじめに、この二番目のことを取り上げます。キリストの血による新しい契約。おそらく私たちは、イエス様の血による契約の本当の意味、その深い意味を理解できていません。それは、私たちをキリストと完全にひとつに結び付けるものです。契約とは、二人の人間を完全な合意のもとに結びつけるものです。契約では、二人が文書に手を下ろして言います、『私たちは、この件に関して完全に一致しています。私たちは、この契約の条件に共に従います。生きている限り、私たちはこの契約のもとにある者として、共にこれを守ります。』

イエス様は言います、『この杯は、わたしの血による新しい契約です。』主はこうも言います、『この契約をわたしと結ぶ者のために、わたしはいのちも捨てます。わたしは、彼らの利益のために生きます。彼らの利益は、すべてわたしの利益となります。そして、わたしは彼らのために、いのちを捧げます。』この血は新しい契約です。しかし、契約には常に二つの当事者が存在します。そして、原則として、一方の当事者に適用されることは、他方にも適用されます。イエス様は言います、『これは、わたしがあなたがたのためにいのちを捨てることのしるしです。』ここで主は言っています、『あなたも、わたしのためにいのちを捨てますか?この契約に基づく同じ条件の上に立てますか?この杯を飲み、そして、これを飲むとき、あなたには血を流したときのわたしと同じ覚悟がありますか?』もちろん、そこには違いがあり、主は私たちの罪のために死なれましたが、私たちは自分の罪のために死ぬことはできません。ご自身の血によって、主は世の罪をあがなわれました。私たちには決して、できないことです。

しかし同時に、この契約は私たちも同じことを求めています。杯は、私たちが主と契約を結んだことを意味します。主の血によって、私たちは主とひとつになりました。そして、今から永遠に、私たちは主のためだけに生きていきます。主にとっての利益が、私たちにとっても至上の利益です。私たちは主のために生き、主のために死にます。愛する友人の皆さん、私たちが杯を受けるとき、その杯は常に、このような意味を持っていることをご存知ですか?これが新しい契約の杯のより深い意味です。主は既に、私たちにご自身を捧げられました。私たちがあえてその杯を受けるなら、私たちも自分を主に捧げることになります。私たちは、主の血潮によって永遠の契約に結ばれました。私たちが主の血潮にあずったとき、私たちのいのちは主とひとつになりました。私たちは皆、主の聖餐を受けるたびに、このことを思い出さなければなりません。杯を受けるとき、私たち一人ひとりが、しばらくのあいだ、心を静め、自分に問いかけてみましょう。この杯は、何を意味しているのか?この杯で、私は何をしようとしているのか?この杯で、イエス様は何しようとされているのか?これが意味するのは、主と私が永遠のいのちの契約によってひとつになったということだ。主のいのちが私のためにあったように、私のいのちは主のためにあるのだ。

私は数年前、インドであった出来事をよく覚えています。私たちは主の聖餐を囲んでおり、前の席には二人の若いインド人が座っていました。二人とも、とても利発そうな感じの若者でした。私は主の聖餐について語っていました。私は、杯とパンにあずかるとはどういうことなのか――そのために主に完全に身を捧げることが必要であることなどを話しました。私は、この事実にあらためて向かい合うよう参加者たちにお願いしました。私たちは頭をたれて、祈りを捧げました。そして、兄弟が杯を運んで来て、一人ずつ回してゆき、そして、あの若者たちの一人のところにも、杯が回ってきました。私が見ていると、その人は杯を手に取り、しばらくのあいだ、目を閉じて静かにかまえながら、このことについて真剣に考えているようでしたが、やがて、彼は何かを決断したかのように、杯を取り上げ、口につけて飲みました。それから、杯は、隣にいたもう一人の若者に渡されました。彼が杯を手に取ったとき、彼の顔には恐ろしい葛藤をしているような表情が浮かび、そして、彼がそのことを懸命に考えているのが分かりましたが、最後には、彼は頭を振ると、杯を次の人に渡しました。

彼は、決断をくだしたのです。彼は、『私にはこの契約を結ぶことはできない。イエス様に人生のすべてを捧げることはできない』と告げたわけです。彼は神に対して誠実でした。私はその若者を称賛しました。彼がしたこと、つまり、イエスに人生を委ねることを拒否したまま、会合から出て行ったことを、私はとても残念に思いはしましたが、彼が誠実であったことは間違いなく称賛いたしました。杯を取り上げて飲む人はたくさんいます。しかし、それは形式に過ぎません。キリスト者が皆、そうするからです。主の聖餐の席につくとき、私たちがいつもそうするからです。私たちは、飲む前にその手をとめて、自分に問うてみることをしません。すなわち、イエス様は本当に私の人生のすべてを支配されているだろうか?主が私のために全てを捧げられたように、私も主に全てを捧げる気持ちがあるだろうか?私は再び、契約書の上に手を置いて、『生きるときも、死ぬときも、永遠に私は主のものです』と言えるだろうか?友人の皆さん、これが、杯が意味するものです。これが、杯によって主が求めていることです。そして、杯を手にして、私たちがそう考えることを主は望んでおられます。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。』

時間がきたので、もうひとつの聖書箇所について語ることはできません。また、別の機会をいただけるかもしれませんが、今は分かりません。しかし、覚えておいていただきたいのですが、私がこれ以上、このお話しをできなくても、この杯は主イエス様と私たちのあいだ、私たちと主イエス様のあいだで結ばれた血の契約です。私たちは、主イエス様と永遠に理解しあえる関係に入りました。主が私たちのためにご自身を完全に捧げられたのですから、私たちも自分の全てを主に、主のために捧げます。

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