2023年12月3日日曜日

オースティン・スパークス、『わたしたちが一つであるように・・・』第41回会合

セオドア・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合41、『祈りは、主との生活におけるすべての基本である』
Meeting 41 - Prayer is the Basis of Everything in our Life with the Lord

第四十一回会合
(1964年3月10日午後)

使徒行伝、第9章の10節から12節、『さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」』

第11節の最後の言葉は、『そこで、彼は祈っています。』この言葉から、使徒パウロの主イエス様との関係は、祈りから始まったことがわかります。ダマスコへの途上でも、彼は主と話はしていましたが、彼が本当に主イエス様と祈りを交わしたのは、このときが最初でした。このパウロと主イエス様の祈りの時間が三日三晩、続いたと知ったら、皆さんは驚かれるでしょう。私たちの中で、三日三晩、祈り続けたことのある人がどれだけいるでしょうか。三日三晩、祈り続けることができればキリスト者としての生活のための確かな土台ができることは間違いなく、この祈りの時間が、この使徒の生涯のために強固な土台を築いたことは疑いありません。

これまでに主が私たちに啓示されたもっとも大きな事実の中には、使徒パウロの祈りの生活を通してもたらされたものがいくつもあることをご存じですか?彼の祈りのいくつかを思い浮かべるだけで、それが他の比類のない啓示であったことがわかります。エペソ人への手紙をよく読むと、パウロが祈ったときにどれだけすばらしいことが起こったか分かります。コロサイ人への手紙にも同じことが言えます。パウロが書いた手紙には、彼の祈りの他にも、多くの祈りがあります。多くの手紙の中で、パウロは何を祈ったかを語っており、その全てが神の御心のすばらしい啓示になっています。さて、今夜、学ぶのはそのような祈りについてではありません。手紙の中の祈りを読むこともしません。ただ、祈りは、神がご自身を知らせるすばらしい手段であること、そして、祈りは主と生きる生活における他のすべてのことの基礎であることを明らかにしておきたいと思います。

さて、パウロは三日三晩も続けて何を祈っていたのかと、皆さんも不思議に思うのではないでしょうか。その問いに答えることができれば、私たちにとっても、祈りのよい基本となるはずです。すなわち、真の祈りとは何かを理解できるし、真の祈りはどのようなことからなっているかを知ることができます。パウロが、あの最初のすばらしい祈りの時間に何を祈っていたのか、私にも幾分かは推測できると思います。そして、そこで祈っていたことは、私たちの祈りの中にも常に置かれるべきものであると私は確信しています。

パウロの最初の祈りのはじめにあったのは、恥辱と告白であったと言っても、あながち間違いではないでしょう。それは砕かれ、悔いた心の祈りでした。それが、パウロの祈りのはじめに来たものであったことは確かです。パウロは、これまでの人生で、自分が何をしてきたかを思い知らされるようになりました。あのりっぱな若者、ステパノの殺害に同意したのは、それほど前のことではなかったのです。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いたとあります。そして、サウロは、ステパノを殺すことに賛成していたともあります。それからサウロは、男でも女でも牢獄に入れる権限を大祭司から与えられていました。そしてパウロは、遠く離れた町に至るまで教会を迫害したと、自ら語っています。また、サウロはこの道の者たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていたと書かれています。こうして、彼は自分が犯してきた大きな過ちを認めるようになりました。自分がしてきたのは、なんと恐ろしいことだったのだろうか。自分は主イエス様にどれほどひどい傷を負わせてきたのだろうか。キリストが十字架につけられたことに対し、精神的にも原理的にも、自分は責任を負っていた。まさしく彼の罪が、イエスを十字架に釘付けにしたのだ。

そして今、彼はこの恐ろしい事実を心に抱えながら生きています。そのため、彼の祈りは、心に湧き上がる深い屈辱と後悔から発せられたものだったはずです。彼は、主に向かって、自分がいかに間違っていたかを告白し、主の赦しを乞うたことでしょう。親愛なる皆さん、これが真の祈りのはじめに置かれるべきものであり、そこにあるのは、私たち自身も罪を負っていることを認め、自分が神のあわれみを受けるに全く値しない人間であると告白することです。自分が罪を負ったものであると自覚することなしに、主の御前に出ることはできません。自分の価値のなさのゆえに頭をたれることがなければ、主の御前に立つことはできません。神の臨在のうちでは、高慢になったり自分を義とすることは許されません。神の御言葉にこうあります、『わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれた者だ(イザヤ66章2節)。』そして、最初の祈りを捧げたとき、この同じ思いがこの男の中にあったことは間違いありません。あの三昼夜のあいだ、パウロが多くの涙を流したこともまた確かだと思います。

そして、その祈りで二番目に来たものは、間違いなく、主に全てを明け渡すという心と態度でした。彼の中には、主に対する絶対的な服従という心があったはずです。主イエス様に自分の全てを完全にゆだねるということです。その後、彼は何度も自らを主の囚人と呼び、手紙の中で何度も、『イエス・キリストのしもべであるパウロ』と書いています。パウロが、自分をイエス・キリストの囚人にして、しもべという立場に置き、主人としてのイエス様に対する絶対的な服従と明け渡しという態度を取るようになったのは、間違いなくこの最初の祈りにおいてであったと私は思います。そして、同じことが私たちのすべての祈りにも含まれていなければならないことは、皆さんにも同意していただけるでしょう。まず第一に、自分自身の罪にまみれた状態を告白し、次に、主の囚人、主につながれたしもべとして、主イエス様に絶対的に服従することです。

それから、第三のことがらですが、これもパウロのこの祈りの中に必ずあったと私は信じています。それは、主の御心に完全に自分を従わせることでした。この時まで、彼は自分の思いに従い、自分自身の意志が生き方と行動を支配するにまかせ、自分が進む方向を自分で定めてきたのであり、その時の彼は、さだめし、こう言っていたでしょう、「私の思いだけがなるように。」彼が徹底して自分の意志だけを貫こうとしていたことは、私たちにもわかります。しかし、この時の彼は、主の御心に従うようになっていました。彼が言葉に出して言わなくても、このような気持であったことは確かです、「これから私のいのちは、私の願いではなく、主のみこころのとおりに。」この気持ちが、この祈りに含まれていたことは間違いありません。というのも、この時から生涯の終わりまで、彼はただひとつのことのために生きたのであり、それは主の御心であったからです。

さて、これは、キリスト者としての生活が始まるときだけの態度ではなく、常に私たちの祈りの生活の特徴であり続けなければなりません。私たちのキリスト者としての生活においては、主の御心に、自分の思いを従わせなければならない場面が多くあります。私たちの肉にとって、主の御心は、必ずしもいつも容易なものではなく、時には、何か特定のことがらで、主の御心に自分を従わせることが、非常に厳しい戦いとなります。そして、祈りこそが、自分を主の御心に従わせるための時間です。今晩、ここに集っている皆さんの中にも、何かの問題で神の御心に従うための戦いを抱えている人がいるかもしれません。それなら、今こそ、その問題を解決する時です。私たちの祈りの時間は、あらゆることがらについて、神の御心に正しく沿って生きる絶好の機会を与えてくれるものです。

さて、先に進む前に、これまで述べたことをまとめておきます。真の祈りとは、告白と屈辱の祈りです!真の祈りとは、主への絶対的な献身と明け渡しと服従の時間です!真の祈りとは、あらゆることがらについて、神の御心に正しく従うための時間です!

さて、この三つを後ろ向きのこととして捉えることもできます。もちろん、私たちがそれと向かい合うときには、後ろ向きなものではなく、非常に前向きなことがらです。しかし、四番目のことになると、話の方向が少し違ってきます。パウロの場合、この最初の祈りの時が深い礼拝の時であったことは確かです。礼拝は何から生まれるのでしょうか?私たちを礼拝へと導くものは何でしょうか?礼拝の真の性質と心とは何でしょうか?それは、神の恵みに対する言葉にできない深い感謝ではないでしょうか!?私たちは、神の恵みに対する感謝の大きさに応じて礼拝を捧げる者です。祈りのあいだもずっと、ひざまずいていたこの男は、神の恵みに対する感謝をこめて、ひたすら心に注いでいたことでしょう。自分がどのような人間であったかを悟り、自分の罪の大きさを悟り、そして、自分の本性がキリストの敵であったことを悟り、それでもなお、よみがえり、迫害された主が、自分のような人間を救うために降りて来られた――このことがパウロに、神の恵みとあわれみに対する何よりも深い感謝の念へと、ひたすら心をそそがせたのです。パウロが好んだ手紙の書き出しは三つの言葉を並べたものであったことをを思い出してください――すなわち、『恵みとあわれみと平安があなたがたの上にありますように。』それがパウロにとってのすべての土台でした。すばらしい恵み、説明することのできない恵み、限りないあわれみ、そして神との平安。間違いなくこれが、祈りのあいだ、彼の心を占めていたことです。それは神の恵みに対する深い礼拝の祈りだったのであり、同じことが、真の祈りの中には必ず含まれていなければならないのです。

さて、この四つのことがらを踏まえると、主が入ってこられる道が開かれていることがお分かりでしょう。主は、あの部屋で祈っていた男に目を留められました。主はタルソのサウロが何をしていたかもご存じでした。主はアナニヤに、『そこで、彼は祈っています』と言われました。そして主は、彼が何について祈っているかをご存じでした。主は、その祈りが、あの四つのことがらから成っていることもご存じでした。この四つは、主が通る道を開くものです。そこで主はアナニアに言われました、『この街路、この家に行き、サウロというタルソ人を尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。アナニアよ、その家にはいり、その人の上に手を置くと、その人は再び見えるようになり、聖霊に満たされます。』主はその人に会うための道を開いてくださいました。まず第一に、彼の見えなかった眼が開かれました。その眼は、肉体的には盲目でしたが、その時、彼は霊的な眼を受けたことは確かです。タルソのサウロが、そこでひざまずいて祈っているあいだ、まだ重い雲の下にいて、彼の心を覆う暗闇がまだあったとしても、アナニアが彼の頭に手を置いて、『兄弟サウロ』と言ったとき、すべての闇は消え去り、そして、彼の心は天からの光で満たされたのです。

それから、パウロは聖霊に満たされました。

聖霊は私たちの贖いの証印と呼ばれています。『私たちは約束の聖霊によって封印されています(エペソ1:13)。』私たちは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです(エペソ4:30)。それがどのような意味を持つか、社会生活に例えるとよく分かります。あなたの証印が品物に押されていれば、所有権を主張できます。どこへ出しても、『これは私のもの、私に所有権がある』と主張できます。同じように、聖霊は神の証印であり、キリストの証印です。聖霊は、その人がキリストのものであることを示す証印であり、主はその権利をいつでも主張できます。私たちのいのちに主の証印が押されていることは、実に大きなことです。

さて、私たちが聖霊を受けることは、生涯の働きで用いられる道具を受けるということですね。それは、アナニヤが(後にパウロと呼ばれる)サウロに言った言葉から分かります。彼は言いました。『私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。(使徒22章14~15節)。』

アナニアが、その手をサウロの頭に置き、『兄弟』サウロというすばらしい言葉で呼びかけたとき、これら三つのことが起こりました。それは恵みの大いなる勝利でした!主はこのような生き方を始めるための道を開いておられたのであり、それは、今まで述べてきたように、彼の祈りを成していた四つのことがらのゆえでした。このことは、今夜だけでなく、祈りるときはいつも、多少なりとも私たちの助けとなるかもしれません。もし、これが道、私たちの祈りの心の道であるなら、主は私たちとともに進む道を開いてくださいます。

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