2023年12月28日木曜日

オースティン・スパークス、『わたしたちが一つであるように・・・』第42回会合(最終回)

セオドア・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』
That They May All Be One, Even As We Are One.

会合42、『主の御名のために』
Meeting 42 - "For the Sake of His Name"

第四十二回会合
(1964年3月12日午後)

今晩は、しばらくのあいだ、天の御国のたとえに戻りたいと思います。マタイによる福音書の13章44節、『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』畑に隠された宝のたとえです。前にもお話しした一貫性の法則によると、ここでもこの畑は、世のことと解釈しなければなりません。イエス様は、種をまく人のたとえで、畑とは世のことであると説明されました。だから、ここでもまた、畑は世を表しています。そして、他のたとえ話と同じように、この人とは人の子のことです。この世でこの宝を見つけたのは、主イエス様ご自身です。そして、次に、宝を見つけた主は、自分の持っているものをすべて売り払い、宝ではなく畑を買われたとあります。主は畑を買うことによって、宝を自分のものとされたのです。

ここからは、外側からはじめて、中心に向かって話しを進めていきます。最後の最後に、この宝の話しににたどり着くようになります。第一に、この人が、持ち物を全部、売り払っても、この畑を買わなければならない理由を考えてみましょう。それを説明している聖句はどこにあるかと尋ねたら、あなたはどこを開かれるでしょうか?少し考えてみてもらえますか?では、私のほうから、この部分の説明となる聖句をあげてみます。パウロからピリピ人にあてた手紙の2章5節から8節をお開きください。『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』

自分の持っているものすべてを売り払った人の子がいます。主が手放されたのは、実に大きなものでした。主は神に等しいお方でした。ヨハネ17章の祈りの中で、主は言いわれました、『父よ、世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光でわたしを輝かせてください。』神と等しいお方であり、世界の基が置かれる前からあった神の栄光を持ち、神の御子として主は満ち足りた天の全てを持っていました。主はすべての御使いと天使たちの上におられ、彼らも御心をなすためなら全てを捧げました。そして、これほど大きなものを主は全て手放されたのです。

『主はご自分を無にされた』ということばにあるように、主は天にある栄光をすべて投げ出されました。神と等しいお方である主は、ご自身を無にされ、しもべのかたちを取り、人と同じ姿になりました。主は、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。これが、この宝に対して主が支払われた代価です。人の子は、畑に隠された宝のために、実に大きな代価を支払われました。聖書には、その人は持ち物を全部、売り払ったと書かれています。あなたも私も、この『全部』という言葉の意味を、真に理解することは絶対にできません。おそらく、私たちが栄光の座に近づくとき、この宝のために、主イエス様がどれほどの犠牲を払われたかを理解し始めることになるでしょう。

さて、ここには宝があり、畑があり、神の御子が持ち物をすべて売り払って、その宝を買いました。しかし、聖書には、『その人は畑を買った』と書かれています。『その人は宝だけを買った』とは書かれていません。その人は、宝を手に入れるために、畑を買いました。これは何を意味しているのでしょうか?ここは、私たちキリスト者がなかなか理解できなかったことだと思います。私たちが理解していなかったのは、主イエス様が全世界を贖ったということです――この世界のすべての男、すべての女、すべての子供が贖われました。イエス・キリストはすべての人間の救いを買い取りました。主は、すべての人間の贖いの代価を支払ってくださいました。問題は、人間はイエス様の尊い血潮によって買い取られたのに、その真実を信じて受け入れない人たちがいるということです。彼らが受けるべき非難は次のようなものです。この贖いの代価があなたのために支払われたのに、あなたはそれを受け入れようとしません。これが福音というものなのです。キリストはすべての人を贖われました。主の血潮によって、すべての人の代価が支払われました。それが、『主を信じる者は、だれでも救われます』ということです。しかし、世の大部分は、キリスト・イエスによる贖いを受け入れようとしません。

それが、私たちを宝へと導きます。私たちは宝とは何かを理解することができます。主は畑全体を買い取られましたが、その中の宝だけを自分のものとしました。その宝とは何でしょうか?この問いに答えてくれる聖句はあるでしょうか?私はあると思います。使徒行伝の15章14節をお開きください、『神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。』ここに書いてあることがお分かりですか?異邦人たちとあります。そして、異邦人たちの中に、御名をもって呼ばれる民が隠されています。聖書は、この時代にすべての国民が救われるようになるとは教えていません。それどころか、この終わりの時代に、救われない人々も数多く出ると教えています。しかし、聖書が教えているのは、異邦人たちの中に、主は、ある民を見いだされ、異邦人の中から御名をもって呼ばれる民をお召しになるために来られたということです。

これは、異邦人は救われないということではありません。この預言者は叫びました、『わたしを仰ぎ見よ。地の果てのすべての者よ。』神はすべての者が悔い改め、真理を知るようになることを願っておられます。しかし、すべての国民が主に立ち返ることをしないので、神は諸国民の中から御名をもって呼ばれる民だけをお召しになるのです。主は言われます、シメオンは諸国民を見渡し、諸国民の中にこの宝、すなわち、御名をもって呼ばれる民を見た。そして主は、この時代を通しても、諸国民の中から御名をもって呼ばれる民を探しておられます。これが、主が諸国民の中に見る宝です。主は諸国民の中にその宝を見られます。主は、私たちに、これとあれは確かに宝の一部であるが、こっちのこれや向こうのあれは宝の一部ではないというふうに教えることはしません。そうではなく、主が言われるのは、あなたがたが国々に出て行って、すべての国民に福音を宣べ伝えなさいということです。それによって、諸国民の中からある者たちが主の宝として連れて来らるのです。誰が宝であるかは、主だけが知っています。あなたや私はそれを知りません。その宝は主にとって非常に大きな価値があります。

その宝の価値とはどのようなものでしょうか?それは、主ご自身の御名の価値です。この問題全体において、何よりも決定的な要素とは、主の御名です。ここですべてを支配する重大な言葉は、『御名をもって呼ばれる』です。この宝の価値は、主の御名の価値に他なりません。新約聖書において、御名がどれほど重要な位置を占めているか、お分かりしょうか?私たちの救いは、ただこの御名によるものです。救いはこの御名の意味にかかっています。主の御名を信じる者は救われる。つまり、御名への信仰が救いの基礎であり、始まりです。

そして、私たちには、(キリスト者という)主の名が付けられています。使徒ヤコブは、『あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名』と言っています――私たちは主の名で呼ばれているのです。アンテオケの人々が、信者たちを『キリスト者』と初めて呼んだとき、何を考えてそう呼んだのかは分かりません。もちろん、世間はいつも人々に何かの名前を付けずにいられないものです。しかし、アンテオケで信者が最初に『キリスト者たち』と呼ばれたとき、その名前には大きな意味があります。この言葉はただ、キリストに属する人々を意味しています。彼らはキリストのものです。だからこそ、私たちにもこの名がつけられ、キリスト者と呼ばれます。あなたは自分をキリスト者と呼んでいますか?今夜、ここにいる方が、私はキリスト者ですと言うとき、それはただ、私はキリストのものですという意味です。主に付けられていたこの名前が、今は私に付けられている。私はキリストの名をこの身に負っている。

次に来ることは何でしょう?使徒行伝を見ると、彼らは御名のために出て行ったとありますね。つまり、彼らはキリストの御名のために世に出て行ったのです。彼らは主イエスの御名のための生活と奉仕へと旅立ちました。私たちがキリスト者であるのもそのため、すなわち、主の御名を背負って世に出て行くためです。

次に起こることは何でしょうか?彼らは御名のために苦しむことを喜びとしました。弟子たちは、自分が御名のために苦しむにふさわしい者であることを誉れとしました。すなわち、次に起こるのは、御名のために苦しむことです。これは、私たちが御名をどのように考えるか、そして、御名のためにどれだけ苦しむ覚悟があるかということによって決まります。奉仕と試練はイエス様の御名のためにあります。パウロが改心し、手を引かれてダマスコに連れていかれたとき、その三日三晩の祈りのあいだに、主はアナニアに語りかけて、それまで、タルソのサウロがどこにいたかを告げ、彼が何をしていたのかを知らせました。それから、主はアナニアに言われました、「あなたはこの男のところにいって、彼の上に手を置きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人たちのもとへと運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」奉仕と苦しみはひとつに組み合わされています。奉仕と苦しみは御名のためにあります。

次に来ることは何でしょうか?御名のために用いられる私たちの人格と行いです。御言葉にこうあります、『何をするにも、ただ主イエスの御名によってしなさい。』人格、行いは御名のために。私たち自身がどのような者か、そして、この世で私たちがどう振舞うかということが、イエス様の御名に影を落とします。私たちの品性が良くなければ、また、私たちの行いが良くなければ、それは主の御名に対する不名誉となります。こうして、御名は世のあらゆる場面において、私たちの生活の全てを支配することになります。

御名に関わることで、もうひとつふれておきたいと思います。これまでに私たちが語ってきたことが全て真実であれば、もし私たちが御名への信仰を通して救われるのであれば、もしこの私たちがこの尊い御名で呼ばれ、私たちがその御名を荷うのであれば、もし私たちがその御名のために毎日、世に出ていくなら、もし私たちに、その御名のために苦しむ覚悟があるなら、そして、もし私たちが、御名の栄誉のために自分の人格と行いを整えたいと切に求めているなら、次のことが真実になります。私たちは御名によって力を得ます。

五旬節の日のすぐ後、ペテロとヨハネが祈りの時間に宮に上っていった話しを思い出してください。宮の門に生まれつき足のきかない男が哀れな姿で横たわっており、その男は助けを乞い、施しを求めていました。ペテロはその男を見ると、彼を大いに哀れんで言いました、『金銀は私にはない』、しかし、私はそれよりも良いものをあげよう、『ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』それは、その人がそこにいた長い年月の中で受けた最高の贈り物だったでしょう。御名が持つ大きな力がその人におくられました。もちろん、このことはユダヤ人の支配者たちを動揺させました。そして、ペテロとヨハネは権威者たちとの確執に巻き込まれました。彼らは法廷に連れて行かれ、裁判にかけられ、断罪され、そして、裁判官は、あなたがたは誰の名によってこんなことをしたのか?と問い質しました。これは、何の権威によってと言う意味です。そして、ペテロは答えました、もしあなたがたが、この人が誰の名によって、あるいは、何の権威によっていやされたかとお尋ねなら、それはナザレのイエス・キリストの名によるのだということを、よく知ってください。この御名には力があり、権威があります。彼らは主イエス様の御名によって、多くの力あるわざを行いました。

しかし、御名の力を真に理解するためには、この御名について知らなければならないことが、まだ他にもあります。多くの人々は、聖別とか人格の話しは抜きにして、この力を得たいと望んでいるものです。この力を受けるためには、聖い生き方、イエス様の御名に即した生活が求められます。この力を苦労せずに得たいと思う人がたくさんいるのではないかと思います。苦しい思いをせずに得られる力はありません。御名のために苦しみをあえて受ける人々こそ、御名の力を知っている人たちです。

しかし、これで終わりではなく、もうひとつ大切なことがあります。黙示録を見ると主はこう言っています、『わたしは、勝利を得る者の上に、わたしの新しい名を書きしるす。』御名とは、すなわち、栄光の御名です。それは栄光の冠であり、この名を信じてきた人々、この御名へと聖別された人々、この世の生涯を通して御名を誇りをもって背負ってきた人々、御名のために仕えてきた人々に与えられる栄光の冠です。御名にふさわしい人格を持つように変えられた人々、そして、御名のために苦しみを受けた人々には、その額にこの御名が刻まれます。それは彼らがキリストと共に栄光を受けたというしるしとなります。

私たちは、これまで話してきたことを本当に理解しているでしょうか。今夜、ここにいる人たちはそれほど多くの国から集まっているわけではないでしょう。実際に、いくつの国の人がここにいるのか分かりませんが、数カ国だと思います。とにかく、今夜ここにいる私たちは皆、どこかの国から来ています。私たちは主のものでしょうか?なぜ私たちは主のものなのでしょうか?なぜ私たちは救われているのでしょうか?この問いに対するあなたの答えはどのようなものですか?私が救われたのは、罪が赦されるためですね。私が救われているのは、終わりの日の裁きを逃れるためです。私が救われたのは、天国に行くためです。そう、もちろん、これは全て真実です。しかし、こういったことが私たちの救いの本当の目的ではありません。私たちが救われたのは、主の御名のためです。私たちが、諸国から集められたのは、主の御名のためです。そして、諸国から集められたこの宝の価値が、主イエス様の御名の価値です。そして、この御名の価値が、天国のすべての栄光なのです。それこそ、主が私たちの救いのために支払われた代価です。

主イエス様が手放されたものはすべて、主がご自分の御名に付けられた値段なんです。そして、その名が本当にあなたや私に付けられているなら、主イエス様にとって、私たちは非常に大きな価値を持つ者ということになります。それは、私たちが自分の中に持っている価値ではありません。あなたはこう言いたいかもしれない、私には価値なんかない。私にはイエス様の名を帯びる価値なんてあるはずもない。あなたが言われるなら、確かにそれは事実です。それは、私たちが自分の中に持っている価値ではなく、私たちに付けられたイエス様の御名の価値です。私たちの価値は、御名の価値です。その御名がなければ、私たちには何の価値もありません。しかし、この御名があれば、私たちは高価な宝となります。主は、御名を負った私たちを、ご自身にとって非常に貴重なものと見られます。私たちはこうして、御名のために救われるのです。

愛する友人の皆さん、私があなたがたに訴えたいこと、あなたたちに言いたいことは、この世での生活の全てが主イエス様の御名に従うものであるように求めなさいということです。あなたの人格の全て、あなたの行動の全て、そして、この人生であなたが行うこと全てが、イエスの御名の栄光のためであるように求めてください。すべての上に置かれるべき問いはただひとつです、すなわち、これは主イエス様の御名の栄誉となることだろうか?いろいろなことで何かと語りたがるキリスト者がたくさんいて、まあ、そのこと自体には何の害もありません。なぜ、私がそれをやってはいけないのか?何の問題もないはずだ。なぜ、このことや、あのことに手を染めてはいけないのか?どうして、他の人たちと同じことをしてはいけないのか?これは、すべて否定的な味方ですね。私たちの問いかけは、いつも次のようであるべきです。私がこれをしたら、イエス様の御名が讃えられるだろうか?私はイエス様の御名が讃えられるような仕事をしているだろうか?イエス様の御名が讃えられるようにお金を使っているだろうか?人前での私の振る舞いは、主イエス様の栄誉となるものだろうか?これがキリスト者の生き方の肯定的な見方です。ですから、私たちは全てのことにおいて、自分に問いかけるべきです、これはイエス様の御名の栄えとなるだろうか?主の民のあいだに分裂があるとき、私たちは言うでしょうか。ああ、これは主の御名をひどく汚すものだ。主の御名のためには、私たちは、なんとしてもこの分裂を抑えなければならない。

さて、最後にもうひとつ述べて終わります。その人は畑で宝を見つけました。彼はその畑を自分のものにするために持ち物を全部、売り払いました。その人が、その畑のために贖いの代価を支払ったとき、この人は、畑に隠されていた宝も自分のものとして確保したのです。それから、その人は宝をどうしたでしょう?手に入れた宝を、この人はどうしたのでしょうか?『それを隠した、隠しておいた』とあります。愛する友人の皆さん、主の民は国々に隠されているということですよ。諸国にいる主の民を見分けるためには、彼らの上に付けられた主の御名を見るしかありません。アンテオケの町の人々は、彼らが着る服でこの人たちを見分けられるとか、このことやあのことや他の何かで、見分けられるなどとは言っていません。私たちは、彼らに付けられた御名のゆえにキリスト者を見分けられます。彼らはキリストのものです。それが、世間が私たちを見分ける唯一の方法です。

そうでなければ、私たちは他の人々と何の違いもありません。私たちは、違う種類の人間になっていて、別の人々と何かの外見上の違いで区別されるわけではなく、キリスト者として世に隠されているのです。イエス様は言われました、『世が私たちを知らないのはこのゆえです。』彼らが神にとってどれほど価値ある存在であるか、世は知りません。彼らがキリストが最大の代価を払ってくださったほどの宝であることを、世は知りません。彼らは主が隠された者たちです。彼らが主のものであることを知っているのは主だけです。私たちが何者であるかを世が見分ける方法は、ただひとつ、私たちが主の御名に従って生きていることです。私たちは、この世で、主の御名を身に帯びるという栄誉を受けています。それは、私たちに付けられた価値ある御名です。だから、主は言われます、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない(第一ペテロ1:16)。』これがキリスト者を見分けるしるしです。最初の信者たちについて、彼らがイエス様と一緒にいた者たちであったことが、人々には分かったと言われています。それがどういう意味だったにせよ、そこには何かとてもすばらしいものがあります。私たちが彼らを見分けられるのは、彼らがイエス様に似ているからです。

これは非常に簡単なメッセージでありながら、非常に深いメッセージでもあります。このすばらしいたとえは、ひとつの節に書かれているだけですが、主がこの時代全体を通して行っておられること、すなわち、主がご自身の御名のために諸国から民を集めていることが告げられています。

すばらしいことがあります。天国に行ったとき、私たちはどんな姿になっているでしょうか?これだけは言っておきたいのは、あなたがたは天国では、私を英国人の男性として見ることはないし、私も天国ではあなたがたを中国人の男とか女として見ることはないでしょう。天国では、肌の白い人も黒い人も黄色い人も赤い人もいません。私たちは皆、栄光を受けた人の子の姿をしています。これは、顔が黒かったり白かったりするよりも良いことはないでしょうか?神の御言葉には、私たちは御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められていると明言されていますね。そして、私たちが目覚めるときは、主のような姿になっているでしょう。この地上で、私たちが神の御名を背負ったなら、地上で神の御名を称えたなら、地上で御名のために苦しみを受けたなら、天では主の御名が私たちの上にあり、ただ一人の偉大なキリスト、私たち全てのうちに現わされたキリストの御名で呼ばれます――それは、私たちが神の似姿に変えられているからであり、神の御名で呼ばれるからです!

終わり

ただで受けたものはただで与えるべきであり、利益を得るために売ってはならない、また、彼のメッセージは一字一句、そのまま再現しなければならないというT・オースティン-スパークスの遺志に従って、これらの著作を他の人と共有される場合は、著者の希望を尊重して、無料で提供してください――改編はいっさい行わず、料金を求めず(必要な配布費用は除く)、また、この一文を必ず含めていただくようお願いします。

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