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2021年7月19日月曜日

スポルジョン『信仰の小切手帳』 7月19日:じょうぶな靴

『あなたの靴(かんぬき)が、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。』申命記33:25

ここには、巡礼者のために備えられたものが二つあります。靴と力です。

靴について言えば、荒れた道を旅して、危険な敵を踏みつけるために絶対に必要なものです。裸足では進めません――それは、王家の血筋を引く王子にはふさわしくないことです。私たちが履く靴は、ありきたりのものではなく、どれだけ長く困難な旅路であっても擦り切れない、丈夫な金属の靴底を持つものでなければなりません。私たちには、困難な道中と戦いに応じた守りが与えられます。

ですから、私たちは、蛇を踏んでも、あるいは、竜に足をかけても、傷を負うことを恐れず、大胆に進もうではありませんか。

2021年7月18日日曜日

スポルジョン『信仰の小切手帳』7月18日:荒野の交わり

7月18日:荒野の交わり

『それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。』ホセア2:14

神は、その高潔さのゆえに、私たちが罪に惑わされているのを見ると、愛という、より力強い誘惑を与えようとされます。私たちのたましいを愛するお方が、まず私たちの心を捕らえて、この世の魅惑から目を引き離したときのことを憶えていないでしょうか?主は、悪のわなに捕らわれそうになっている私たちを見れば、これを何度でも繰り返してくださいます。

2021年7月11日日曜日

スポルジョン『信仰の小切手帳』 7月11日:神から離れない

『また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』ヨハネ11:26

はい、主よ、私たちは、決して死ぬことがないことを信じます。魂が肉体から離れることはあり、それは、ある意味の死ではありますが、私たちの魂が神から離れることはありません。それは、本当の死――罪に脅かされた死――起こり得る最悪の出来事である罰としての死です。

私たちは、それを何よりも確かなこととして信じており、主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは、誰にもできません。私たちはキリストのみ体の各部分です、キリストがご自身の体の一部を失うことがあるでしょうか?私たちは、イエス様と結婚しており、主と死別して、やもめとなることがあるでしょうか?あり得ないことです。私たちの内には、神から切り離すことのできないいのちがあります。そう、聖霊が中に宿っているのに、どうして私たちが死ぬことがあるでしょう?イエス様ご自身が私たちのいのちであり、主が再び死ぬことはないのですから、私たちも死ぬということがありません。主にあって、私たちは一度、罪に死んだのであり、死刑の判決を二度は執行できないのです。

2019年12月25日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十五日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十五日:イエス

兄弟姉妹の皆さん、説教の代わりに、私の証しをさせてください。私が見てきたこと、この耳が聞いてきたこと、私の心が味わってきたこと――キリストが御父のひとり子であるということの証しです。

世にとっては人間であろうと、私にとって主は神です。神以外の誰にもできないことを、主は私にしてくれました。主は、私の強情な意思を変え、かたくなな心を溶かし、鋼鉄の鎖を断ち切り、真ちゅうの門を開き、そして、鉄の棒を砕きました。主は、私の嘆きを笑いに、私の絶望をよろこびに変えました。主は、私をしっかりと捕えて、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる心を与えてくれました。他の人たちがどう思おうとも、私にとって、主が御父のひとり子であることは間違いありません。御名がほめたたえられますように。恵みに満ちた手を、あらためて証しします。ああ、もし主がいなかったら、私は神の栄光を見ることはなかったでしょう。私は罪であふれていました。主を信じなかった私は、罪を背負ったものでした。主は拒んでいた私を引き寄せ、必死で抗った私を導き続けました。そして、ついに私が、判決を受けた犯人のように、震えながら主の憐れみの座に着けられたとき、主は言われました、『あなたのの多くの罪は赦されています。安心して行きなさい。』

2019年12月24日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十四日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十四日:主の栄光を見る

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

『私たちはこの方の栄光を見た。』その栄光が聞こえたとか、預言書で読んだとか、他の誰かの口から聞いたのではなく、この方の栄光を見たと書かれています。これは、最初の弟子たちに与えられたすばらしい特権でした!妬ましく思ったことがないでしょうか?このお方、その中に神が住まれるこの方を見たということ。その哀れみの旅を、同行者としてともに歩いたこと。その雄弁な唇から生き生きと流れ出ることばに耳を傾けたこと。主の目を見つめて、その奥に輝く愛の深さに気づくこと。主の顔を見ること。これらはすべて肉的で、どれも視覚的なことであり、キリスト者とは、視覚に頼って生き、歩くだけのものではなく、もっと崇高な存在です。キリスト者は、信仰によって生きています。そして、今日もなお、信仰によって見えるキリストの姿があります。ですから、主を目で見る特権を持っていないことを不満に思う必要はありません。キリストの姿を目にしたからと言って、実際に見た者たち、弟子たちにさえも、大して良いことはなかったように思われます。五旬節の日に聖霊が降りて初めて、彼らはキリストを知り始め、キリストご自身から聞いたことも、ようやく理解し始めたのです。

2019年12月23日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十三日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十三日:恵みとまことに満ちて

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

ご存知のように、ユダヤ教会の最大の栄光は、神がその中に幕屋を構えたことでした。モーセの天幕ではなく、十二部族の族長たちの様々な館でもなく、神が宿るつつましやかな幕屋がイスラエルの誇りでした。彼らは王を中心として集まり、その中に神が臨在したのです。

この幕屋とは、人間が神と交わるときに入った天幕であり、神が人と交わるときに向かった場所でした。ここで、人と神は、牛や子羊を屠ることを通してお互いと出会い、両者の間には和解がありました。

2019年12月22日日曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十二日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十二日:恐れることはありません

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:10-14)

神の子よ、あなたはこう言います、『私は今日、とても弱々しく、神のもとに行けない。』恐れてはいけません。ベツレヘムで生まれるお方が、『彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない(イザヤ42:3)』と言われたのです。

2019年12月21日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十一日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十一日:このために生まれた

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:10-12)

私たちの主イエス・キリストは、ある意味でアダムよりも人間的です。アダムは、人から生まれていません。アダムは、幼少期の危険や弱さで苦しむ必要はなかったのです。アダムは、幼少期の人間のひ弱さを知りませんでした――初めから完全な大人でした。父としてのアダムは、赤ん坊として、子供としての私に共感することはできません。しかし、イエス様はなんと人間らしいことでしょう!主は私たちと同じく飼い葉おけで揺られています。アダムのように人生の途中から生き始めたのではなく、主は幼子の痛みや弱さや無力さを私たちとともに経験し、そして、墓場までも一緒に生きてくださいます。

2019年12月20日金曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十日:恐怖への救済

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:8-12)

ここにあるのは恐れからの救済です。神が私たちとともにある。神が人のからだを持った。

この言葉にあるように、羊飼いたちには恐れる必要はなかったのです。御使いが彼らに良い知らせを伝えに来たからです。何が起こるのでしょうか?『私はすばらしい喜びを知らせに来たのです』とあります。しかし、この福音とは何でしょう?後になると、福音とはキリストが生まれたことであると知らされます。ということは、このときは、キリストが生まれること、神が降りてきて、人間の性質を御自身に結び合わせたことが、人間にとっての良い知らせなのです。

2019年12月19日木曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十九日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十九日:恐れる日々は終わった

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:8-10)

主の使いが羊飼いたちのもとに現れ、主の栄光が回りを照らしたとき、彼らは恐ろしくなりました。人間は神を恐れていたので、神が大きなよろこびの知らせを運ぶ愛の使者を送ったのに、人間たちは、死の使いが剣を振り上げて現れたかのような恐怖で満たされることになりました。

2019年12月18日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十八日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十八日:賢者たち

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(マタイ2:1-2、9-11)

東方の博士たちは、その星を拝み、他の星と比べ、その星が現れた正確な日付、瞬いた回数、動いた時間といったことを記録に留めるだけでは満足せず、星が教えることを現実に用いました。

2019年12月17日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十七日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十七日:星が伝えることば

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:1-2)

人間が福音を述べ伝えることができなければ、神は星によっても、たましいを御子のもとへ導くことができます。ああ、星に限らず、石、鳥、草の葉、露の一滴でもいいのです。

全能なるお方には、あらゆる場所にしもべがいることを思い出してください。

2019年12月16日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十六日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十六日:あなたに向けられた神の御心

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:13-14)

アダムが堕ちて以来、地上に平和はありませんでした。しかし、新しく生まれた王が姿を現したこのとき、主を包んでいた産着のひもが、平和を告げる白旗となりました。飼い葉桶は条約が結ばれて、人間の良心と自分自身、人間の良心と神のあいだの戦争が終結する場所になりました。

2019年12月15日日曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十五日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十五日:いと高き所に、栄光があるように

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:13-14)

この御使いの歌の前半部分から学ぶべき教訓とは何でしょう?それは、救いが神にとって、最高の栄光であるということです。

神は、朝日にきらめく一滴一滴の朝露の中で栄光を受けます。雑木林に咲く全ての木の花が、誰に見られずに咲き、その甘い香りも森林の空気の中に消えてしまっても、神はそこで讃えられます。神は、水しぶきにさえずる全ての鳥、牧草地を駆けるすべての小羊の中に栄光を受けます。海の魚は主を崇めないでしょうか?小魚から怪物のような大魚まで、水中を泳ぐすべての生き物は、主の御名を祝福し、賛美しないでしょうか?全ての被造物が主を崇めないでしょうか?空の下には、人間を除いて、主を讃えないものがあるでしょうか?

2019年12月14日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十四日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十四日:よろこびのために歌え

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

十二月の暗い夜に生まれた陰気な宗教家たちがいて、微笑みを浮かべることは間違いだと考え、キリスト者が歓んだり、幸せを感じることは誤りであると信じています。ああ!この紳士たちが、キリストについて歌う天使たちを見たらよかったと思います。天使が主の生誕のことを歌えば、間違いなく、人も生きている限りそのことを歌い、死ぬときにそのことを歌い、そして、天国で永遠に生きるときも、同じことを歌うはずだからです。

2019年12月13日金曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十三日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十三日:真のよろこびのしるし

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(ルカ2:12)

この世によろこびが訪れたしるしです――数人が、飼葉おけの中のキリストを見つけ、この方こそがしるしであると聞かされています。すなわち、一人一人が、何かを教えてもらう状況に置かれています。彼らは、みどりごが、『布にくるまれている』ところを見ました。この赤子のどこにも、この世的な力の兆候すら見られません。小さな赤子の二つの弱々しい腕(arm)ときたら、自分で動かすこともできません。ああ、地上の国々は、軍事力の中によろこびを見いだします。武器(arm)を集めて強大になることが、国家の誇りとなっているのではないでしょうか?自分の国が、他の誰よりも速く人を殺せることを思うとき、愛国者はそれを誇って頬を赤らめるのでしょうか?

2019年12月12日木曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十二日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十二日:よろこびは多すぎることはない

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

罪のよろこびは炎の泉で、その源は地獄の燃える土にあり、その火の水を飲む者を狂わせ、食い尽くします。そのような楽しみを、私たちは味わいたいと思いません。罪の中で幸せになることは、呪われるよりも悪いことです。罪の中で惨めさを感じることが、恵みの始まりだからです。神は私たちを汚れた平安と汚れたよろこびから救い出します!御降誕を知らせる御使いが告げたよろこびは、それが続く限り純粋なものであり、大きく聖いものです。ですから私たちは、キリストを信じることは、その信仰自体の中に大きなよろこびがあることを、いつも信じましょう。

2019年12月11日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十一日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十一日:この世で最高のよろこび

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

この節にあるのは、初めての福音伝道の説教です。その説教者とは御使いであり、この天使の福音の鍵となる言葉は喜びです――『私はすばらしい喜びを知らせに来た。』

生まれながらの性質は、神の臨在を怖れるものです――羊飼いたちも恐れました。律法そのものが、この自然な当惑という感情を深める働きをしました。人には罪があり、その罪をあらわにするために律法が世に入り、このことが示したのは、どんなかたちで現われようと、神は人を怖れさせ、震えあがらせるというものでした。ユダヤ人たちは皆、超自然的な者の出現を見た者は必ず死ぬと信じていました。しかし、伝道者である御使いが語った、世界で初めての福音の言葉が、それを終わらせたのです、『恐れることはありません。今、私は喜びを知らせに来たのです。』

2019年12月10日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十日:あなたには、場所がありますか?

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

日常の会話の中に、キリストの入る場所は何と小さいことでしょう。人は、いろいろなことについて語り、この国で言論は完全に自由ですが、ああ!日々の会話の中でキリストが入る場所は、本当にわずかです!日曜の午後、キリスト者を公言している者の家でさえ、キリストのための場所はほとんどないのです。彼らは、聖職者について話し、彼らの逸話を語ります。日曜学校のこと、また、教会とかかわりを持つ様々な団体のことを話しますが、キリスト自体のことはほとんど何も言わないのです!そして、輪の中の誰かが、『皆さん、神格と人格、完成された働きと義、昇天や、主イエス・キリストの再臨のことをお話ししませんか』などと言おうものなら、大ぜいの人たち、自らをキリストの信奉者と公言する人でさえも、頭を抱えて言います、『この男はあまりに狂信的すぎる。そうでなければ、普通の会話の中に、こんな話題を持ち込もうとは考えもしないはずだ。』そう、宿屋の内側に、主の居場所はないのです。

2019年12月9日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第九日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第九日:宗教の中に居場所はない

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

いわゆる上層社会の中に、キリストの居場所はあるでしょうか?ベツレヘムにも、民衆よりも自分を上に置く、立派な身分の人たちがいたのではないでしょうか――名声があり、地位も高い彼らはキリストの居場所を見つけられなかったのでしょうか?愛する友よ、いわゆる良き社会の中に、主のいる場所はありません。人間の社会には、愚かでつまらない様式を作って、その中に自分を閉じ込める場所があり、また、無意味な細かい礼儀作法が置かれる場所、軽薄な会話の場所、肉体を誉め合う場所、その時々の偶像として、あれやこれやを建てる場所があります。しかし、キリストのための場所はあまりに小さく、主に完全に従うことは、流行とは程遠いところにあります。