2019年12月14日土曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十四日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十四日:よろこびのために歌え

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

十二月の暗い夜に生まれた陰気な宗教家たちがいて、微笑みを浮かべることは間違いだと考え、キリスト者が歓んだり、幸せを感じることは誤りであると信じています。ああ!この紳士たちが、キリストについて歌う天使たちを見たらよかったと思います。天使が主の生誕のことを歌えば、間違いなく、人も生きている限りそのことを歌い、死ぬときにそのことを歌い、そして、天国で永遠に生きるときも、同じことを歌うはずだからです。

私は教会の中で、歌うキリスト教をもっと見たいと願っています。ここ数年というもの、私たちのあいだでは、うめき声をあげる、懐疑的なキリスト教が育まれてきました。私は、その誠実さを疑いはしませんが、それが健全な性質のものであるかどうか、疑わしく思っています。それは、十分に真実であり、本物であるかも知れません。それを実践している人たちの誠実さを否定するようなことは許されませんが、それは病んだ宗教です。ワッツの次の歌詞は的を得ています。

『宗教とは決して、私たちの楽しみを
取り去ることを目的としたものではない。』
(We’re marching to Zion, Isaac Watts)

宗教は、私たちの楽しみのある部分を取り除くように作られていても、より多くのものを与えて、取り去られたものを補ってくれるので、楽しみが少なくなることはありません。キリストの中に、疑いを産み出し、頬に涙を落とすものしか見えないと言うあなた。いつもこんなふうに歌うあなた。

『主よ、ここはなんと惨めな国なのでしょう、
私たちに何も備えてくれないとは』
(Lord what a wretched land is this, Isaac Watts)

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい(ピリピ4:4)。とくに今週は、喜ぶことを恥じてはいけません。幸せを感じることを、誤りだと思う必要はありません。悔悛やむち打ちや惨めさは、結局、それ自体が高潔なわけではありません。呪われたものは悲惨です。救われた人たちこそ幸せであると考えましょう。なぜあなたは、永遠に喪に服しているような気持ちで、失われた者たちとの交わりを続けなければならないのですか?むしろ、天のよろこびを待ち望みながら、この地上で終わらない歌を歌い始めてはどうですか?

心の中で大切に守るべき第一の感情は、よろこびと感謝です。

出典:Joy born at Bethlehem(1871年12月24日に語られた説教)

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