2019年12月23日月曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十三日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十三日:恵みとまことに満ちて

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

ご存知のように、ユダヤ教会の最大の栄光は、神がその中に幕屋を構えたことでした。モーセの天幕ではなく、十二部族の族長たちの様々な館でもなく、神が宿るつつましやかな幕屋がイスラエルの誇りでした。彼らは王を中心として集まり、その中に神が臨在したのです。

この幕屋とは、人間が神と交わるときに入った天幕であり、神が人と交わるときに向かった場所でした。ここで、人と神は、牛や子羊を屠ることを通してお互いと出会い、両者の間には和解がありました。

さて、キリストの人間としての身体は神の幕屋でした。神が人と会うのはキリストの中であり、そして、キリストの中で人間は神の助けを受けます。当時のユダヤ人は、礼拝するとき、野営の中心にある神の天幕に行きました。私たちは、神を崇めたいときは、キリストのもとに来ます。ユダヤ人が、何かの式典を行った後で、儀式の汚れから解放されたいと思えば、神の聖所に登り、神と自分のたましいのあいだに平和が戻ったことを確かめました。すでにキリストの尊い血で洗われた私たちは、私たちの幕屋であり、人間のあいだに置かれた神の幕屋であるキリストを通して、父なる神にも、大胆に近づくことが許されています。

幕屋自体の最大の栄光とは、至聖所にありました。至聖所には、契約の箱が置かれ、その黄金の蓋は贖いのふたと呼ばれていました。贖いのふたの上にはケルビムが立てられ、その翼はお互いと重なり合っていて、ケルビムの翼の下には、ヘブルの信者たちにシェキナと呼ばれる明るい光が置かれました。その光は神の臨在を表すものでした。その光のすぐ真上には、夜になると、火の柱が見られることもあり、昼になると、渦を巻く雲の柱がそこから立ち昇っていました。幕屋の栄光はシェキナでした。私たちの書物はなんと言っているでしょう?イエス・キリストこそが神の幕屋でした。

しかしながら、幕屋としてのキリストには、ずっと優れた点があり、それによって、主はユダヤ教会の栄光よりも、はるかに勝っているのです。『恵みとまことに満ちておられた。』ユダヤ教の幕屋は、恵みに満ちてはおらず、むしろ、律法であふれていました。その儀式やしきたりの中に、恵みの予兆があったことは事実ですが、それでも、生け贄を繰り返すことで、罪の記憶が新たによみがえり、そして、人は儀式の法に従順でなければ、幕屋に近づくことは許されませんでした。しかし、キリストは恵みにあふれています――少しの恵みではなく――あふれるばかりの恵みが、主の中に満ちています。

古い時代の幕屋は、真実ではなく、虚像と影と象徴と概念で満ちていましたが、キリストは明白な実体を持っています。主は像ではなく、現実です。主は影ではなく、実体です。信じる皆さん、神の本物の幕屋であるキリストのところに来たのですから、言葉にできないよろこびで満たされてください。あなたがみもとに来た主は、御父の栄光にあふれています。そして、あなたが来た主とは、あなたがもっとも必要とする恵みを象徴するものを与える方ではなく、恵みそのものであり――いずれ明らかになる真理の影ではなく、あなたのたましいを神の目に受け入れさせてくれる真理そのものなのです。

出典:The glory of Christ beheld(1861年10月20日に語られた説教)

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