2019年12月24日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第二十四日

もろびとこぞりて―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第二十四日:主の栄光を見る

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

『私たちはこの方の栄光を見た。』その栄光が聞こえたとか、預言書で読んだとか、他の誰かの口から聞いたのではなく、この方の栄光を見たと書かれています。これは、最初の弟子たちに与えられたすばらしい特権でした!妬ましく思ったことがないでしょうか?このお方、その中に神が住まれるこの方を見たということ。その哀れみの旅を、同行者としてともに歩いたこと。その雄弁な唇から生き生きと流れ出ることばに耳を傾けたこと。主の目を見つめて、その奥に輝く愛の深さに気づくこと。主の顔を見ること。これらはすべて肉的で、どれも視覚的なことであり、キリスト者とは、視覚に頼って生き、歩くだけのものではなく、もっと崇高な存在です。キリスト者は、信仰によって生きています。そして、今日もなお、信仰によって見えるキリストの姿があります。ですから、主を目で見る特権を持っていないことを不満に思う必要はありません。キリストの姿を目にしたからと言って、実際に見た者たち、弟子たちにさえも、大して良いことはなかったように思われます。五旬節の日に聖霊が降りて初めて、彼らはキリストを知り始め、キリストご自身から聞いたことも、ようやく理解し始めたのです。

キリストを信仰によって見るほうが、目で見るよりもずっと良いことです。主を信仰によって見ることはたましいを救いますが、キリストを目で見ていても、主を十字架につける、主の支配と力に対する最悪の反逆者の中にいたかも知れないからです。

あなたは、信仰によって主の栄光を見たことがありますか?その唇から、いつもイエス様の知らせがあふれている人は幸せです!その働きがキリストで満ちている人は祝福されています!その人は、自分のたましいが祝福されるだけでなく、他の人たちのたましいを祝福するからです。そんなことは知っていると言うかも知れませんが、ではこれはどうでしょうか?あなたは、主の栄光を聞きながらも、自分は罪の中で滅ぶかも知れません。あなたは、主の栄光について読みました。その本はあなたの家にあり、いつも読んでいます。そして、あなたは、主が多くの捕虜を引き連れて、高い所に昇られ、今も神の右の座に着かれたことを知っています。しかし、この全てを読んで、主を知りながらもなお、主を拒んだのなら、それは呪いであって、祝福ではありません。あなたは主の民の中におり、主があなたのところに来たのに、あなたは主を受け入れなかっったのです。ああ!主の栄光を見なさい!これはたましいの働き、救いの働き、祝福された働き、いつもまでも続く働きです。あなたは、この働きに関心がありますか?

しかし、あなたは答えます、『主の栄光を見るにはどうしたらいいのですか?』信仰がそれを見るのです。信仰が、私たちのために生きて死んだ男を振り返り、彼の恥辱の中に栄光を、その不名誉に栄誉を、その貧しさに豊かさを、その弱さに力を、その争いに勝利を、その死の内に永遠のいのちを見るからです。

信仰は経験によって助けられることもあります。そのとき、経験が主の栄光を見せてくれます。経験は、払いのけられる私たちの罪の中に主の恵みの栄光を、御父と私たちを和解させる主の血の尊さを、意思を抑えてくれる御霊の力を、御座にあっても私たちをいつも覚えてくれる主の心の愛を、そして、神とのあいだを絶えずとりなしてくれる主の嘆願の力を見せてくれます。主が御腕を私たちの下に差し入れて、『恐れるな、あなたは決して溺れない』と言われるとき、この経験が、深い水の中にキリストの栄光を見せてくれます。人の子が苦しむイスラエルとともに、火のついた炭を踏むとき、燃えさかる炉の中に、栄光が表されます。経験は、サタンの絶え間ない攻撃の中に、キリストの栄光を見せてくれます。盾として、毒矢をすべて払い除けてくれる主は、私たちが生き、また、自分に死ぬことができるように助ける中で、キリストの栄光を見せてくれます。また、私たちが立ち上がって、主が子供たちのために買い取られた王冠を手にする中で、キリストの栄光を見せてくれます。

出典:The glory of Christ beheld(1861年10月20日に語られた説教)

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