2019年12月11日水曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十一日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十一日:この世で最高のよろこび

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2:10)

この節にあるのは、初めての福音伝道の説教です。その説教者とは御使いであり、この天使の福音の鍵となる言葉は喜びです――『私はすばらしい喜びを知らせに来た。』

生まれながらの性質は、神の臨在を怖れるものです――羊飼いたちも恐れました。律法そのものが、この自然な当惑という感情を深める働きをしました。人には罪があり、その罪をあらわにするために律法が世に入り、このことが示したのは、どんなかたちで現われようと、神は人を怖れさせ、震えあがらせるというものでした。ユダヤ人たちは皆、超自然的な者の出現を見た者は必ず死ぬと信じていました。しかし、伝道者である御使いが語った、世界で初めての福音の言葉が、それを終わらせたのです、『恐れることはありません。今、私は喜びを知らせに来たのです。』

それ以来、人が造り主に近づくことは、恐ろしいものではなくなりました。贖われた人間は、神がその輝かしい威厳を現わされても怖れることはありません。それは、神が恐怖の王座に座った裁判官としてではなく、聖らかさと親しさを持った、ひたむきな御父として、愛する子供たちの前に現れるからです。

この初めての福音伝道者が語った喜びは小さなものではなく、(その知らせは)ただの喜びの良き知らせよりも大きな、『すばらしい喜びのよい知らせ』だったのです。福音とは、他の何にもまして、どこで受け取られようとも、人間の心の中に可能な限り最大のよろこびを育て、豊かな喜びを産み出すために伝えられることを、ひとつひとつの御言葉が強調しているかのようです。人間は、弦の張られていない竪琴のようなもので、その魂の生きた弦が奏でる音楽は不協和音であり、初めから終わりまで悲しみを帯びています。しかし、ダビデの子、力強い竪琴奏者が、人間性の調和を回復するために来られました。そして、この方の恵みにあふれた指が弦のあいだを動くとき、その受肉した神の指の感触が、なめらかな球体のような甘い音楽、御使いの歌のような豊かな旋律を産み出します。

地上のよろこびは小さく、世の歓喜などは取るに足りないものですが、天は私たちに、計り知れない喜び、終わることのないいのちにふさわしい喜びを送ってくれました。

出典:Joy born at Bethlehem(1871年12月24日に語られた説教)

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