2019年12月10日火曜日

スポルジョン、『もろびとこぞりて』、第十日

もろびとこぞりて
―降臨節に向けた25章
チャールズ・H・スポルジョン

第十日:あなたには、場所がありますか?

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:7)

日常の会話の中に、キリストの入る場所は何と小さいことでしょう。人は、いろいろなことについて語り、この国で言論は完全に自由ですが、ああ!日々の会話の中でキリストが入る場所は、本当にわずかです!日曜の午後、キリスト者を公言している者の家でさえ、キリストのための場所はほとんどないのです。彼らは、聖職者について話し、彼らの逸話を語ります。日曜学校のこと、また、教会とかかわりを持つ様々な団体のことを話しますが、キリスト自体のことはほとんど何も言わないのです!そして、輪の中の誰かが、『皆さん、神格と人格、完成された働きと義、昇天や、主イエス・キリストの再臨のことをお話ししませんか』などと言おうものなら、大ぜいの人たち、自らをキリストの信奉者と公言する人でさえも、頭を抱えて言います、『この男はあまりに狂信的すぎる。そうでなければ、普通の会話の中に、こんな話題を持ち込もうとは考えもしないはずだ。』そう、宿屋の内側に、主の居場所はないのです。

宮殿にも、討論会にも、そして、宿屋にもキリストの居場所はありません。あなたの中には、キリストが入る場所はありますか?

『実は』、ある人は言います、『主が入れる場所はあっても、私は主をお迎えする価値のない者だ。』ああ!私が尋ねたのは、価値があるかどうかではなく、場所があるかということです。『おお』、その人は言います、『私には、この世が満たすことができない穴が開いている!』ああ!それなら、あなたには、主を受け入れる場所があるのです。『でも、私の心の中の場所は、こんなに薄汚れている!』あの飼葉おけも同じでした。『でも、その場所はあまりに卑しい!』飼葉おけも、やはり侮られるべきものでした。『ああ、でも私の心は、こんなに汚らしい!』飼葉おけも、そうだったかもしれません。『それでも、私の心がキリストにふさわしいところは、とても思えない!』全くふさわしいところではなかったあの飼葉おけに、主は寝かされました。『しかし、私はひどい罪人だった。これまで、私の心はまるで獣と悪魔の巣窟だった!』そう、飼葉おけは、獣に餌を与える場所だったのです。あなたには、主を迎え入れる場所がありますか?過去のことは、気にしないでください。主は忘れ、赦すお方です。

私は、キリストを自由に語ることができます。私が述べ伝えたいと望む、尊く愛情深いキリストは、へりくだった人の心の中に、自分の入る家を見つけたいと願っておられます。

出典:No room for Christ in the inn(1862年12月21日に語られた説教)

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