2021年2月7日日曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】2月7日

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。【詩篇42:2】

私が受け入れることも、容認することもできないのは、神を知らないのに、どのように礼拝すべきかを語る人です。私の神への礼拝は、ひざまずいて聖書を開き、神を求めて心が喘ぐところから始まります。

神への礼拝の仕方を指図する自然詩人に従うことを、私は絶対にしません。その指図が、人間的な観点から来ていることは明らかです。確かに、瞑想すること、自分の姿をあらわにすることによって様々なことが生まれ、多くを得られるでしょうが、私はそれを受け付けません。

2021年2月6日土曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】2月6日

神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。十弦の琴よ、立琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。【詩篇108:1-2】

人間の中では、何かが神を礼拝したいと望んでいます。問題は、自分のやりたい方法で、神を礼拝しようとしていることです。神がこのような礼拝者をすべて拒絶されるのはこのためです。主イエス様は、神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければならないと言われました。この『しなければならない』と言う小さな言葉が、余計なものをすべて取り除いてくれます。神のことでは、これ以外の何も受け入れられません。神を礼拝するなら、神がこう礼拝されたいと望むかたちで、礼拝しなければなりません。

そこに妥協はあり得ず、大目に見ることも許されません。ただ、事実が明白に指摘されるため、自分のやり方で礼拝する者は、完全に拒絶されます。

2021年2月1日月曜日

エイデン・トウザー【日々の渇き】2月1日

主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、慰めを得ました。【詩篇119:52】

今日、異端者があふれています。自分が信じたいことだけを信じる人たちです。異端者たちは、特定のことばや言い回しを強調することによって、あるところは理解して受け入れながら、別の何かは否定するようにします。あることを行い、他のことは拒否するのです。異端者とは、神のみ言葉から、ある部分だけを取り上げて選ぶ者たちです。

異端のもっとも危険なところは、彼らが信じていることには、正しい面も多くあることです。異端を、きわめて危険なものにしているのは、人が何を信じるかではなく、何を信じることを拒むかということです。彼らが、明白な悪であれば、今日の福音派教会では大した影響力は持っていないでしょう。