2020年2月29日土曜日

【Daily Open Windows】2月29日

二月二十九日

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。(ヨハネ十五・五、六)

一束の花、バラでも、何の花でもいいのですが、花束を手に取ってみてください。束の中にあるのは、同じ種類の花で、そこには、同じいのちが詰まっています。これは、ただ花がまとめられているだけで、ひとつの体とは言えません!全部が同じに見え、同じ長さだけ生きる花束と、根から生えた植物の違いは、非常に大きなものです。バラの花束と、根の付いた苗木か、低木を手に取り、二つをよく見てましょう。そう、そこには大きな違いがあって、束になった花の方には生命はあっても、その生命は、ただ過ぎ去ってゆくものです。そのいのちが尽きれば、そこで終わりです。その先には何もありません。苗木か、低木をもらえば、それは、成長してゆきます。季節が変わるときに、死の苦しみを通ることはあっても、次の年になれば、元に戻り、より多くの花が咲きます。そして、死んでは生き返るという経験が繰り返され、また、前よりも多くの花をつけ、このすべてが一本の苗木に起こります。これが、からだというもの、有機体というものであり、切り取られた花の束とは違います。そして、これこそが、ただの人の集団、キリスト教徒の群衆、組になってまとまっているだけの集団と、霊的な有機体、すなわち、その場所に表現されたキリストのみからだとの違いです。そして、これこそが、神の願いである主のみからだであって、ただの人の集まりではなく、花束でもありません。しかし、ああ、主の民は、あまりにも切り取られた花束に似ています!確かに、みな同じ種類ではあります。彼らは、キリスト教徒であり、神の子供たちであり、みな、同じ主のいのちを共有していますが、ああ、彼らは、同じ場所に置かれたひとつの有機体として成長し、その中で神も盛んになっていくことはないし、皆が共に死と復活という発作の苦しみを通ることによって、その中で霊的に大きくなってゆくこともありません。・・・

2020年2月28日金曜日

【Daily Open Windows】2月28日

二月二十八日

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(イザヤ五十三・十一)

さて、このことについては、預言者イザヤが知っていたより、私たちの方が多くを知っています!主のいのちが激しい苦しみにあるとき、私たちはゲッセマネの園で主とともにいたのであり、また、その激しい苦しみを超えて今も、主とともにいるのです。そのときから、どれだけのものがキリストの種となったでしょうか!愛する友人の皆さん、キリスト者の数はあまりに少なく、私たちは、この世界に住む何十億という人間の中の小さな一握りの集団に過ぎないという気持ちに捕らわれそうになったら――窓を開けてください!黙示録を開いてみてましょう、『だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆・・・その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。』その数はあまりに莫大で、人間のことばでは表現できないほどです――彼らは、てが、主イエス様が味わった激しい苦しみのゆえに集まった人たちです。主はまさしく、ご自分の種を見ているのです!ゲッセマネは、世界の歴史全体を通じて、最も多くの実を結んだ園です――そして、あなたも私も、主の種から生まれたものです!私たちは主の激しい苦しみの中から生まれたのであり、新しいイスラエルとのあいだに結ばれた契約の中にいます。

2020年2月27日木曜日

【Daily Open Windows】2月27日

二月二十七日

主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を・・・運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒九・十五)

主は器、ダニエルの器を必要としておられ、その器とは、個人であれ、集団であれ、神ご自身の証しのために、神に向かって自ら進み出る器です。神に必要なのは、証しが途切れた民のために心を痛めるネヘミヤです。神になくてはならないのは、神の心と相容れないものとは、一瞬たりとも妥協しないエズラです。神に必要なのは、怖れをものともせずに進み、いのちの危険にひるむこともなく、民の生命を守るため、神の民を敵の脅威から解放するために、王権にすら立ち向かうエステルの器です。ああ!これらの祈りが、どれだけのものを成しとげたでしょう!そして、愛する皆さん、終わりの時の主の働きに用いられる器になろうとするならば、主が抱える重荷が、私たちの心にも等しくのしかからなければなりません。神の助けとなるために、私たちは、非常に深いところまで、用いられなければなりません。主ご自身と主の利益の助けとなるものであれば、なにごとも、ためらってはいけません。主に機会を与えたら、どれだけのことを成し遂げてくださるか、あなたも大いに驚かれるでしょう。

2020年2月26日水曜日

【Daily Open Windows】2月26日

二月二十六日

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(第一テモテ二・五)

全てに対する神の答え、全てのことの神の説明、そして、全てを実現する神の手段とは、このただひとりの人、『人としてのキリスト・イエス』です。この世界が悪に向かう道に進んだとき、私たちの住まうこの地上は、このお方の中で裁かれることになります。人間は、このただ一人のお方との内なる関係がどのようなものであるかに応じて裁かれるます。裁きの場で問われるのは、裁かれる人の中に、どれだけ良いもの、悪いものがあるか、正しいものと曲がったものが、どれだけ多いか少ないかということではなく、問いはただ、この一点に向けられます、『あなたはキリストの中にいますか?』そうでなければ、何が多く、何が少なくても、何の意味もありません。神の意図、神からの宣告とは、すべてが、神の御子の中にあるということです。あなたは主の中にいますか?なぜ、そうではないのですか?判断の基準は極めて単純です。それは全て、このただ一人のお方、私たちのために、この神の人の中にあるものに集約されるのです。これが、判断の基準です。それはすべて、非常に単純でありながら、全てを包み込む、祝福された真実へと帰着します。すなわち、それは、神を喜ばせるもの、神の目的に至るもの、そして、私たちの全ての必要を満たすものとは、キリストのあり方、そのものであるという真実です。全てが、『人としてのキリスト・イエス』という、このただ一人のお方にまとめられるのです。主は私たちの目を、この栄光に満ちた天的なるお方に向かって開き続けます。その方は、また、神なるしもべでもあります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月25日火曜日

【Daily Open Windows】2月25日

二月二十五日

わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。(ヘブル十二・二十六)

地と天において、すべてが揺り動かされようとしており、その目的は、キリストを信じるものがそこにどれだけ生きているかを確かめることです。ユダヤ教徒たちの目の前では、宮、そして、宮という制度の全体が崩れ去ろうとしていたのであり、その後で、彼らは、自分がどれだけのものをキリストから受けていたのか、あるいは、彼らの生活のどれほど多くが、地上のものに縛られていたかに気づくことになります。すべてが消え去ったとき、そこに残されているものが何かが分かります。神はユダヤ教だけではなく、この天的なものをも、揺り動かそうとしています。神は、天と地を揺り動かそうとされており、そして、この揺り動かしによって、自分たちが置き去ったものが何か、私たちが気付くことになるのは、地上の制度が消えていくとき、キリスト教における天的なものの表現さえもが試されるときになります(ユダヤ教がそうしてきたように、キリスト教も天的なものの表現方法を発展させてきたからです)。人間たちは、新約聖書に啓示された教会、聖職、そして、司祭職のこの世的な表現を作り出しました。この全てが試されることになります。このことが今、多くの者たちに対して、完全に正されようとしています。問題は天と地が揺り動かされることです。私たちに残されるものは何でしょうか?問われているのはキリストです。私たちが述べてきたことを、あなたが好むか、あるいは、それに賛同できるか、否かは、私にはどうでもよいことです。しかし、私にとって大切なのは、私たちはキリストのもとに来たのであり、それは、天におられるキリストが私たちのいのちであり、天におられるキリストが私たちの全てであり、これは、神によってそのように定められたのであって、そして、地上にある何ものもキリストの代わりにはなり得ない示すためであることです。神は本来、キリストがいるべき場所を占めているすべてのものに終わりを来たらせます。神が永遠の昔から定めておられるように、すべてのものにおいて、キリストがすべてを超えた存在でなければならず、すべてのものにキリストが満ちていなければならず、そして、なにものも、主の前に誉れを受けることも、主の代わりとなることもあり得ません。主は、私たちをキリストのより大きな計りへと導かれ、キリストのより大きな計りを私たちの中にもたらしてくれます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月24日月曜日

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二月二十四日

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ三・五)

これまで、神の国に、『自分の意志の力で入った』人は、一人もいません。すなわち、自分の意志で御国に入ろうと決断し、神の国に住まうという覚悟を持った上で、その決意の強さのゆえに、そう決断したとおりに御国に達した人など誰もいないのです。そのようなことは、誰にもできません。このことに関連して、実に多くの過ちが繰り返され、また、完全に誤った考え方が、大勢の人々に植えつけられてきました。これは、この間違った考えに沿った努力が行われてきたためであり、多くの人々が、この誤った考えに沿って、自分自身の理性、自身の感性、そして、自身の意思を働かせるようにうながされ、それによって生まれかわることができるかのように思わされてきたのです。キリスト教にはこのような関心と行動が見られますが、これは御国に入ることとは、何の関係もないはなしです。大勢の善意にあふれた人々が、キリスト教に関心を持ち、キリスト教の活動に参加します。彼らは、キリスト教徒の標準を満たす生活と、キリスト教の教えに大きな価値があると考え、それを実践しさえすれば、世界はまったく違うものになるはずだと信じてきました。そのために、彼らはキリスト教の中で、忙しく動き回るようになり、そうすることで、自分が神の国にいると思い込むようになりました。大きな間違いです!キリスト教だけに心を傾けていながらも、御国の中にはいないこともありえるのです。これこそ、主イエス様が実質的に、ニコデモに少し違う言葉で、もっと簡潔に語ったことでした。御国に入るただひとつの道とは、神が与えるいのちを、イエス・キリストへの信仰を通して、贈り物として受け取ることであり、それが新しい創造の新しい土台、すなわち、その上ですべてが始まり、すべてが成し遂げられる土台、神なるいのちの土台となります。この主にあるいのちは、その中に、新しい創造のすべての質と活力を備えています。このいのちが、神の国と呼ばれる場所に、私たちの存在を作り上げます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月23日日曜日

【Daily Open Windows】2月23日

二月二十三日

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ三・二十八)

本当に、『キリストにある』とき、パウロの言い方を借りれば、私たちは、何千マイル離れていようと、いつでも、一つになっているものとみなされます。主イエス様は、私たちを、この国にいるとか、あの国にいいるとか、また別の国にいるといったふうには見られません。主ご自身がこの宇宙でただ一つの国家であり、だからこそ、私たちは自分の国を離れ、自身の国籍を捨てて、キリストに入るのです。・・・排他的だったユダヤ人たちは、こう言い続けてきました、『私たちだけが本物の民であり、私たちの国がただひとつの国だ。』イエスさまは、この国境線から出て、外の世界にふれられたのです。・・・

2020年2月22日土曜日

【Daily Open Windows】2月22日

二月二十二日

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第二コリント一・九)

ご存知のように、主の民ではない人たちは、自分が実は死んでいるという事実を知らないまま、生きています。肉体の死が近づくまで、彼らにとって、死は大きな現実ではありません。彼らの日常生活の中で、すべてがうまく進み、身体も健康で、必要が満たされているあいだは、死を気にかけることすらありません。しかし、神の子供であれば、死は、いつも心の中にとどまって離れないものです。神の御手の中に入るとすぐに、このことが心の中に入り込んで来ます――すなわち、私たちには、よいところなどない、立ち向かう力がない、やりとげることはできない。生まれたままのいのちや、持って生まれた能力は、ここでは何の役にも立ちません。真のキリスト者が、神の御手の中で生きる道は、どこにも助けのない経験へと、何度となく、突き落とされる道です。そうでは、ありませんか?そう、助けのない道、自分では何一つできない道です。こんなふうにいつも考えているようになっても、何かが悪い方向に動いているとは考えないでください。もし、神との関わりの中で連れてこられた領域にいながら、自分には何の資質もないことに気づかなければ、あなたは、それが自分が霊的に未熟な段階にいるからだと思い込むかもしれません。あなたは死人のようなものです。死の真実は、あなたの心の中に入り込み、そこで現実となったのです。

2020年2月21日金曜日

【Daily Open Windows】2月21日

二月二十一日

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒十七・二十八)

聖書全体は、人を神のもとへ連れ戻すこと、神の中へと導くこと、そして、自分に備えられた場所に回復させることについて書かれたものです。『私たちが、神の中に生き、動き、また存在している』ことは、霊的な生活の基本となる事実です。私から、あなたがたに提案したいこと、また、考えて欲しいことがひとつあります。それを分かっていただけたら、非常に大きな助けとなるはずです。主が何かを言われるとき、それは表面的には、とても単純で、まったく深刻とも、すばらしいこととも見えないかもしれません。しかし、主から来るものであれば、まったく単純にしか見えなくても、その中には、主が持つあらゆる広大な知識と理解が含まれており、この『単純な』ものの大切さを認めなければ、それが、とてつもなく大きな困難へと、あなたを導くかもしれません。主イエス様が言われる、『わたしにとどまりなさい』ということばは、とても単純で当たり前のことに聞こえますが、そこには、広大な歴史、偉大な原則と真実が包み込まれています。すなわち、『備えられた場所の外に出てしまったら、あなたはあらゆる毒、霊的な病気を引き起こす多くのものにさらされます。すこやかでいるために、わたしにとどまりなさい!あなたのいのちのために!すべてのもののために!わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります!』分かりましたか?主が言われる、『小さく』見えるものにも、もう一度、目を凝らしてください。そうすれば、その中に大きく広がる意味があることを、あなたも気づくはずです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月20日木曜日

【Daily Open Windows】2月20日

二月二十日

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず・・・、(第二コリント二・十六、十七)

主は、教会を形成するために、私たちを召したのではありません。それは、私たちに関わりのないことです。神に対して、人間がこの事実を認めたことがあったでしょうか!もし認めていたら、この世にある同じものから、今とは、まったく異なった状況が、生まれていたでしょう。主の教会を大きくし、その成長をつかさどるのは主です。私たちがすべきはただ、主が示されたところで、よみがえりの力の中に住まうことです。もし、主が、他の者たちの中から、主のいのちが自由に満ち満ちている神の子供を二人だけをひとつにして、その二人が主のいのちを基として生き、他の人たちを自分の元に呼び寄せたり、特定の事実や教えを受け入れた者だけを配下に集めようとはせずに、ただ、キリストが何を意味しているか、キリストとは彼らにとって何かを証しする者とすれば、そこに主の道が開かれます。・・・

2020年2月19日水曜日

【Daily Open Windows】2月19日

二月十九日

平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ四・三)

新しい創造とは、互いの結びつきであり、聖霊によって内住し、聖霊によって動かされ、実際に、聖霊によってひとつにされる主のからだのことです。『一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受けたからです。』(第一コリント十二・十三)。一致とは、御霊にあってひとつになることです。『御霊の一致を熱心に保』つこと(エペソ四・三)、すなわち、一致を作り出すことではなく、一致を保つことです。新しい創造。

2020年2月18日火曜日

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二月十八日

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ一・三)

霊性とは、ある種の不可思議で理解を超えた『何か』であると考える人――すなわち、霊的であることとは、現実とかけ離れた何か、特別な心の状態だと考えてしま人たちもいるようです。まず第一に、霊性とは、特定の心の状態のことではないのは確かです。ここで言っているのは、静かで天的な心のことです・・・・確かに、霊的であることから生じる実として、このような状態になることはあるかもしれません・・・・しかし、霊性とは、漠然とした秘密めいもの、また、抽象的なものではありません。霊性とは、何よりも実践的なものです。

2020年2月17日月曜日

【Daily Open Windows】2月17日

二月十七日

私たちが神の家なのです。(ヘブル三・六)

民のための第一の願いと、初めの計画の回復のために、主が行わなければならない、また、行いたいと望んでおられる全ての中で、大きな場所を占めているのが、霊的な家族の回復です。ご自身の初めの願いにつながる新しい何ごとかを神が始めるとき、そこでは必ず、霊的な家族と、この家族から生まれるすべてがあらたに動き出します。それによって、多くのものが弱められてしまったり、また、間違えて考えていた多くのことを切り捨てるようになることもあります。伝統的な制度の全体を捨て去らなければならないことすらあります。

2020年2月16日日曜日

【Daily Open Windows】2月16日

二月十六日

わたしが来たのは、羊がいのちを得るためです。(ヨハネ十・十)

もし、一方で、永遠のいのちが、私たちを生まれたままのいのちから切り離して、それを神との関係の始まりとしてくれたら、別の面から見れば、そこで行われたことは、何よりもすばらしいことです。まさしく、『主のなさったこと、私たちの目には不思議なこと』です。主は、私たちの肉的な生活に入って、私たちが全力を尽くしてできるよりもずっと多くのこと、明らかに今の自分の能力をはるかに越える何かをさせることすらあります。これは、最善の状態にあってもなお、人間としての私たちは、何の価値もない者であることを、主が私たちに教えたからです。主から来るいのちが、このようにします。主のいのちは、ひとつの制度を捨て去って、別の制度を導きいれ、それが用いられる場所を備えます。

2020年2月15日土曜日

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二月十五日

あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。(ガラテヤ一・七)

このことを認めるのに、大して深い知性は必要ありません。すなわち、神の働きの歴史全体を通して、その働きをおとしめようとする者たちが放つ最初の一撃は、常に混乱でした。神は、混乱の神ではなく、秩序の神です。サタンこそ、混乱の神です。混沌から秩序を生み出すために、神は言われました、『光よ、あれ。』秩序から、混沌を引き出すためにサタンは言います、『混乱よ、あれ。』サタンが使う混乱とは、起こされる問題と、その問題にかかわる要素を混同させることです。これを行うために――この単語(confuse)に隠されているように――サタンは、本来は根本的に違っていて、お互いとは何のつながりもない要素を混ぜ合わせ(fuse)ます(あるいは、混ぜ合わせようと試みます)。このために、構造的な矛盾と不一致が生まれています。このサタンの得意な攻撃が浴びせかけられているときに限って、私たちは、ひどく陰険な者となり、自分ではどうすることもできません。サタンの得な攻撃として、混ぜ合わせることによって、騙すのです。

2020年2月14日金曜日

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二月十四日

私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。(コロサイ一・二十四)

パウロは、この『キリストのからだのための苦しみ』、そして、『キリストの苦しみの欠けたところを満た』すことを、幾分なりとも知っていました。私たちも、これに立ち向かわなければなりません!神にとって大切なのは、主の苦しみを共有することです。

2020年2月13日木曜日

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二月十三日

この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(第一コリント三・十三)

主の名前をうやうやしく掲げて、建てられているもの、また、いかにも『教会』らしく、壮麗でりっぱに見えるものは数多くありますが、この一組になったこの現実は、建てる人の中にはないし、建物の中にもありません。このどちらも、神の嵐と炎が人の全ての働きを裁くときには、崩れ去る運命にあります。良い働き、たとえば、慈善活動、もてなし、改革、教育、宗教、救済などは、『キリスト教文明』と呼ばれるものの産物、または、副産物であり、それには深く感謝すべきなのかもしれませんが、こういったものを、『新しい創造』、新生、『上から生まれる』ことと混同しないようにしましょう。教会とは、人間が、自分の中にある材料を用いて一人で、また、共同で建てられるようなものではありません。

2020年2月12日水曜日

【Daily Open Windows】2月12日

二月十二日

肉によって生まれた者は肉です。(ヨハネ三・六)

何でも分析したい気持ちに捕らわれてしまうことは、誰にでもあります。そうなると、あらゆることを議論し尽すことを好み、あらゆることを論理的に説明しようと試み、あらゆることを自分の頭脳、自分の判断力という顕微鏡で調べずにいられず、何ごともこのようなかたちで見通すことしかできません――そして、このようなかたちで理解できるまで、何ごとも受け入れようとしなくなります。こうなると、この人は、ある問題について、分析し、また、調べ上げずにいられない気持ちになり、全ての疑問に対して、あらゆる面から見て完璧な答えを見つけるまで、どんな回答も受け入れようとはしません。このような人の歩みは、とても遅いものになるでしょう。宗教的な激情が力強く波打つことによって初めて、自分は神なるものの中に入ることができると信じている人も、同じです。これは今、悪魔が仕掛ける最大の罠のひとつです。宗教的な感情は、基準とはなりません。それは、真の霊性の土台とはなりません。主の知識を得るため、本当に限られたその知識の一端を得て、その初めの一筋の光を見るためには、私たちの霊が御霊によって目覚めさせられ、照らされていることが必要です。神のことでいう前進とは、私たちの内なる人の成長のことに他ならず、真実を把握するために知的な能力を認めることとは違います。事実とつながり、事実に近づくことによって、いろいろな考え方を理解し、真実と教理を推し量る能力は、増してゆくかもしれません。たとえ、もう理解すべきことがほとんどなくなるまで、その能力が高まっていったとしても、そこに本物の霊性は、計ることもできないほどごくわずかしかないこともあるのです。・・・神の子供とは、その霊が新しくされた者であり、その存在の中心において、神との一致と交わりを持つ者のことです。この一致と交わりは、生まれたままの人間が持つことはなく、また、新しくされた霊の他にはどのような場所にも生まれないものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月11日火曜日

【Daily Open Windows】2月11日

二月十一日

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。(ガラテヤ三・二十四、二十五)

啓示によって、それまで目の前にあったものが、一時的で、暫定的なものに過ぎなかったと示されることがあります。・・・パウロは、これを、私たちをキリストのもとへと導き、キリストに続く道を示すための『養育係』ということばで表しました。タルソのサウロにとって大きな試練となったのは、その時まで、自分は正しい人だと信じ切っていたのに、実はそれが、まったく異なる真実へと彼を導くことが目的であったという事実の光を、心に受け入れられるかということでした。主は、そのご支配の中で、ご自身の最終的で完全な目的から外れた、一時的なものの中に、私たちを入り込ませることがあります。これが、私たちをある地点まで導き、その地点まで達したところで、また、別の何かが入り込んでくるのです。そうなれば、その地点で、ある啓示が与えられて、私たちは言います、『そう、これはもう、十分に目的を果たしたし、ここで終わりにして、もっと大きな豊かさへと向かうときが来たのだ』と。そうなるかどうかは、私たち次第であり、主が自分をここに導いたのだから、ここが最終地点だと決めつけてしまって、主が、私たちをさらに先へと導こうとしていることに気づかなければ、それで終わりです。

2020年2月10日月曜日

【Daily Open Windows】2月10日

二月十日

キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。(第一ヨハネ二・二十七)

主の民、聖書を持っていて、文字としての聖書をよく知っているこの人たちは、彼らが本当の意味でキリストともに十字架につけられていたら、もし、彼らが主の死の中で自分も死んで、主とともに引き上げられ、そして、御霊を受け取っていたら、生活の中に主の光を持つことを、いつになったら、理解し、認めるようになるのでしょう?『キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるのです』(第一ヨハネ二・二十七)。いつになったら信者たちは、いつになったらキリスト者たちは、このことを理解し始めるのでしょうか?なぜ、文字としての聖書の知識を持っているはずのキリスト者たちが、あちらこちらと駆け回っては、自分の霊的な知識を大きく左右する問題で、他者の忠告を求めるのでしょう?私は、その問題で、人に相談することは間違っているとか、経験ゆたかな他の神の子供たちがどう考え、どう感じるかを知ろうとすることは間違っていると言うつもりはありません。しかし、もし、その人たちの結論に基づいて、自分の立場を決めようとするなら、私たちは大きな危険の中にいることになります。どのようなことでも、最終的な権威と決定権を持つのは神の御霊、油注ぎの御霊です。お互いから助けを得ることはかまいませんが、私があなたに望むのは、たとえば、私が何かを語ったからと言って、そのことに基づいて、自分の立場を決めようとはしないで欲しいということです。そのようなことは、しないでください。私は、そのようにして欲しくありません。あなたにそれをしてくださいとは求めません。私が言いたいことはこうです。まずは、よく聞いて、心にとめてください。それから、もし、あなたが神の子なら、あなたの中にいるはずの最終的な権威者のもとへ赴き、何かが真実であればその裏付けをし、真実でなければ、それをはっきり示していただくようお願いしてください。あなたの権利、生まれた時から持っている権利、全ての神の子供に与えられた生来の権利とは、内住の光の御霊、神の御霊の光の中にいることです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月9日日曜日

【Daily Open Windows】2月9日

二月九日

神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ四・六)

『私はアルファである。』神の知識の始まりを告げる音は、イエス・キリストの知識です。それは、『A』、すなわち、赤ん坊の口からはじめて出てくる音で始まります。『神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました』(ガラテヤ四・六)。キリスト者としての人生が始まって、初めに口をついて出る音も、『A』で始まります――すなわち、『父(アバ)』です。私たちが、初めて御父を知るのは、イエス・キリストを知るときであり、イエス・キリストこそ、御父を啓示された方です。御父としての神の知識は、まず第一に、イエス・キリストを通して、私たちにもたらされます。主が祈りの中で言われたのこのことばは、まことに真実です、『わたしは、・・・人々に、あなたの御名を明らかにしました』(ヨハネ十七・六)――そして、その御名とは、『父』でした。

2020年2月8日土曜日

【Daily Open Windows】2月8日

二月八日

あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。(ヨハネ二十一・十八)

『燃える炎のような目』は、現実を探しています。それは、多くのものを見抜く目です。まず第一に、その目は、伝統的で形式的な宗教、すなわち、『キリスト教』を刺し通します。この目はこう問い質します、あなたにとっての宗教は、何らかの制度、歴史的な伝承、家族の伝統といったものに組み込まれたり、貼りついているのものですか?それとも、新しく生まれたものでしょうか――すなわち、あなたの中で誕生したものですか?あなたの身に引き起こされた何かですか?それはあなたの人生そのもの、あなたの存在そのものですか?二番目に――しばらくのあいだ、こちらの方にはなしを集中します――この目は、人の気性と性質を刺し通します。あなたが今、その場所にいる理由、あなたが今、その問題を心にかけているその理由、あなたが今、この相手とつながっている理由、そして、あなたが今、このような考え方をしているその理由について、そのようになっているのは、あなたの個人的な性向のゆえなのか、この目は、それを知りたいと求めています。例えば、あなたは、芸術嗜好で神秘的なものを好む気質を持っているため、自分の心象から、信じる宗教を選んだり、作り上げている人です。または、あなたにはいつも沈んだ気持ちでいる性向があり、そのため、より抽象的なもの、より深遠で、厳粛で、情熱的で、内省的で、そして、思弁的なものほど、あなたの心に訴え、あなたの思いも自然に応えるかもしれません。あなたは神、キリスト教、キリストや聖書を自分の心象から作り上げています。

2020年2月7日金曜日

【Daily Open Windows】2月7日

二月七日

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ十一・三十)

愛する友人の皆さん、もしある事実が、あなたの心を自分だけに向けさせて、内省的にし、霊的に自分のことで精いっぱいにしてしまうなら、その事実は、間違えて理解されています。自分は人よりも霊的な位置にいると思い込んでいても、あなたの理解は全面的に間違えています。キリストが十字架で成されたこの大きな御業は、誰であれ、人を不幸にすることを目的とはしていません。これは、もちろん、言うには及ばないことです。それでも、主を信じた後も不幸なままの大勢の人たち、生きる上での罪の問題で惨めさを味合うたくさんの人たちがおり、そして、その数は、悲しいことですが、増え続けています。より完全な啓示、より深い真実(それをどう呼ぼうと――全てを完全な成長へと向かわせるところ)と、あらゆる個人的な内省のあいだには、明確な線を引いて、常にはっきりと分けておいてください。

2020年2月6日木曜日

【Daily Open Windows】2月6日

二月六日

このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず・・・(使徒十三・二十七)

読者の皆さんに念を押したいのですが、ここで語られることは、聖書をつかさどる、ある非常に大きな原理に基づいています。それは、聖書のことばよりも深いところから聞こえる声があるということ、すなわち、ことばを聞きながら、その声には気づかずにいることはあり得た――今もあり得る――ということです。ことばは、ものごとを言い表すものであり、声とはその意味です。これが、イザヤ書六章九節にも明かされている事実であることは、これまでに説明しました、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ(余白には、「いつでも」)。だが知るな。』これが、最初に引用した聖句、使徒行伝、十三章二十七節の背後にある状態なのです。

2020年2月5日水曜日

【Daily Open Windows】2月5日

二月五日

神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。(ローマ八・二十八)

主イエス様は、ご自身の人生にしっかりと結び付けられた、このご計画を知っていたことから、大きな力を受けました。私たちも、そのご計画を意識すること、私たちに与えられた神の召命を心にとめておくことによって、疑いなく、大きな力を得るようになります。だからこそ、敵はいつも、私たちの心をくじこうと試みます。この敵は、私たちの心に、本当にご計画を果たすことができるのだろうかという疑問と疑いを生じさせようと企み、私たちの働きは無駄であると語りかけます。敵が、私たちから、主のご計画に従って生きているという気持ちを奪い、私たちの証し、私たちの働き、あるいは、私たちが通らなければならない苦しみの価値について、疑いを差し挟むことに成功したら、そこで、私たちは、強さを奪われてしまい、この敵が上手を取ることになります。イエス・キリストが、その生涯の全体を通じて、神の力強さの中に守られていたのは、自分には大きな役割りが与えられているという意識に動かされ、神のご計画に常に従っていたからです。私たちも、生涯の計画をしっかり保ち、天の召しから目を離さないように心がけていれば、同じ強さの中に守られるでしょう。しかし、何か自分の欲望を満たそうとしたり、自分自身の計略に沿って行動して、何かの運動を進めようとするなら、そこに、神が私たちのために備えてくれるものは何ひとつありません。大きな力の中に守られるためには、自分は神の計画の中にいると知ることが絶対に必要です。私たちの奉仕は、常に、神の計画の結果であらねばなりません。私たちにとって、神の計画の中にこそ自分の居場所があると理解することは、非常に大切です。私たちは、自分を否定しなければなりません。神の計画の中に、個人的な利益が入り込む余地はありません。『神を愛する人々』のため、その心が神ご自身と神のご計画の実現にのみ向けられている人々のために、すなわち、『神のご計画に従って召された人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださいます。』これは、信者たちが神の計画へと召されていることを、明確に示していることばです。自分が神の計画の中にいるということを、主イエス様がご存知だったのと同じくらい、私たちも、はっきりと知ることが必要なのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月4日火曜日

【Daily Open Windows】2月4日

二月四日

確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。(第一テモテ三・十六)

苦難のとき、試練のとき、逆境にあるとき、サタンの手がのしかかっているとき、何か意味があることとはとても思えなくても、実は、そこで神が御使いを教えているとか、天の支配と権威がそこから良いものを引き出しているなどと言われても、陳腐な慰めとしか思えないことが多いものです。そんなことばから多くの慰めを与えられることはありません。しかし、よく考えれば、そのような時、地上ではあまり大きな役割を果たしていないように思えても、そこで、私たちがしていることを通し、主の支配と権威に向けた大きな働きが成されていることに、気づくはずです。忙しく駆け回ったり、会合に出席したり、また、主のための働きをすることが、教会に属する者たちにできるただひとつの奉仕であると考えてはいけません。こうしたことが全部、行き詰まってしまい、地上での主のための働きもすべて止まって、私たちがまた、何もできない悲痛な日々にいるときも、主のための働きは同じように成し遂げられます。こんなふうに、何もできないでいるからといって、何の奉仕も行っていないとか、そのあいだ、主のためになることはすべて切り捨てられているなどと、決めつけてはいけません。み言葉を見てみましょう、『・・・今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって』――これは、未来ではなく、今のことです。このきわめて困難で苦しい経験を通して、主が導いてくださるからこそ、彼らは、主が教会で行っていることを学んでいるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月3日月曜日

【Daily Open Windows】2月3日

二月三日

もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(ガラテヤ六・一)

私たちのために、主が十字架においてなされたことの偉大さ――すなわち、私たちをご自身の豊かさへと導き、全ての敵を屈服させたこと――を、どのようなかたちであれ、本当の意味で、霊的に理解し、感謝できるようになれば、私たちは心のない者でいることはできないし、矮小で狭量であることもできず、寛容であらねばなりません。キリストの内側という大きな場所に自分がおかれておるからです。これは、このようなかたちで実現されます。すなわち、主が十字架で私たちのために成してくださったことを、より強く理解し、感謝するほど、私たちは、他の人たちにより寛大に――よりがまん強く、より寛容になり、そして、悪意に対してそのまま悪意で返す心を捨て、人の過ちを受け入れて、耐え忍ぶ気持ちを持つようにならなければなりません。相手が間違っていると感じたとき、すぐに、互いの非を攻め立てるようであれば、主の十字架の苦難を、ほとんど理解できていないことになります。大きな寛大さをもって、非常に多くのことを黙って見逃すようでなければなりませんし、霊的に高く引き上げられていれば、天にある私たちの場所のその高さのゆえに、恵みがすべてに打ち勝つはずです。天にある街々が支配し、天なる生活では、恵みがすべての上に立つものとならなければなりません。あなたがキリストにあって天的ないのちに達した時でさえ、そこでは、過ちに対する備えがされています。そこで、完璧で罪のないものになるのではありません。あなたが天的な生活に入っても、あらゆる欠点、失敗、過ち、損傷が消え去るようなことはありません。そこでも、うまく行かないことだらけで、それに堪えるために恵みが必要なことは、以前とかわりがないように思えます。このように、霊的になってその位置に達したとしてもなお、そこにも間違いはあるはずです。主は、それに対しても、恵みがあると言われます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

2020年2月2日日曜日

【Daily Open Windows】2月2日

二月二日

(主は)より頼んでいるあなたがたには尊いものです。(第一ペテロ二・七)

もし、あなたや私が、自分は他の人より多くの光が当てられ、より多くの啓示を受けていると主張したらどうでしょう――もちろん、そのような主張は決してするはずもありません!――しかし、私たちが、そのことは明白で、それだけの価値があると考えていたら――人から見て、私たちの中には他の者よりキリストがいると思えるでしょうか?神は、自分が御子よりも前に出ることをしないし、神ご自身が理論や、教えや、教理や啓示と呼ばれるものへと動くことは、決してありません。神ご自身は、生ける御子の中に表される範囲にとどまっています。・・・

2020年2月1日土曜日

【Daily Open Windows】2月1日

二月一日

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ三・十六)

この、『ほどに』という小さなことばには、とても大きな重みがあります――『神は・・・ほどに、世を愛された。』ヨハネ伝の三章十六節が福音書の中心であるとよく言われますが、実は、もっと大きなものであり、それは全宇宙の中心でもあります。創造されたこの宇宙のすべてのものの後ろに、ただひとつの心があります。考えとか、意志、設計図、理由、力、布告などではなく、心です。すべてがある設計に基づいて創造されたこと、この宇宙の背後には何かの考えが働いていること、そして、ある意思が宇宙を存在に至らしめたことを証明しようとする試みが行われていることを、私たちはよく知っています。この試みがあること自体は、とても正しく、良いものですが、その創造の背後にひとつの心があること――ほかの何ものよりも大きな心があること――を、じっくり考えてみるように求められることは、そう多くありません。創造の動機、意志、設計は心から出てくるものです。すべてはまず、神の心の中に生まれます。