2020年2月20日木曜日

【Daily Open Windows】2月20日

二月二十日

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず・・・、(第二コリント二・十六、十七)

主は、教会を形成するために、私たちを召したのではありません。それは、私たちに関わりのないことです。神に対して、人間がこの事実を認めたことがあったでしょうか!もし認めていたら、この世にある同じものから、今とは、まったく異なった状況が、生まれていたでしょう。主の教会を大きくし、その成長をつかさどるのは主です。私たちがすべきはただ、主が示されたところで、よみがえりの力の中に住まうことです。もし、主が、他の者たちの中から、主のいのちが自由に満ち満ちている神の子供を二人だけをひとつにして、その二人が主のいのちを基として生き、他の人たちを自分の元に呼び寄せたり、特定の事実や教えを受け入れた者だけを配下に集めようとはせずに、ただ、キリストが何を意味しているか、キリストとは彼らにとって何かを証しする者とすれば、そこに主の道が開かれます。・・・


主の教会は、あなたがたがそこに集って、建物をいっぱいにし、多くの人を呼び寄せたり、また、会合に集まった人たちに役割を与えて、地方集会へとまとめたとしても、そのようなことで、盛んになるものではありません。それは主が求めるやり方ではないのです。成長は、主にあるいのちによるのであり、それは、はじめに、ただひとつの魂が主なるいのちに入ってから、長い間、他の何かを待ち続けた後で起こるかも知れないし、また、もっと急速に進むこともあるでしょう。しかし、大切な点は、それが主のいのちがゆえの成長であることです。それが、主の教会の成長というものです。

ご自身の教会の成長のために、主には、いのちを伝える管、いのちの中心が必要です。主のいのちの中心があれば、遅かれ早かれ、二つのうちのどちらかが起こると私は信じています。すなわち、誰の目にも明らかなかたちで、キリストがきっぱりと完全に拒絶されるか、そうでなければ、そこで拡大、成長が起こるのです。主のいのちには途方もない力があって、このいのちは、殺すこともあり、また、息吹を与えることもあります。どちらになるかは、このいのちに対して取る態度によって決まります。主は、いのちからいのちに至らせる救い主、または、死から死に至らせる救い主のどちらにもなります。どちらでもない中間のままで、い続けることはありません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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