2020年2月29日土曜日

【Daily Open Windows】2月29日

二月二十九日

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。(ヨハネ十五・五、六)

一束の花、バラでも、何の花でもいいのですが、花束を手に取ってみてください。束の中にあるのは、同じ種類の花で、そこには、同じいのちが詰まっています。これは、ただ花がまとめられているだけで、ひとつの体とは言えません!全部が同じに見え、同じ長さだけ生きる花束と、根から生えた植物の違いは、非常に大きなものです。バラの花束と、根の付いた苗木か、低木を手に取り、二つをよく見てましょう。そう、そこには大きな違いがあって、束になった花の方には生命はあっても、その生命は、ただ過ぎ去ってゆくものです。そのいのちが尽きれば、そこで終わりです。その先には何もありません。苗木か、低木をもらえば、それは、成長してゆきます。季節が変わるときに、死の苦しみを通ることはあっても、次の年になれば、元に戻り、より多くの花が咲きます。そして、死んでは生き返るという経験が繰り返され、また、前よりも多くの花をつけ、このすべてが一本の苗木に起こります。これが、からだというもの、有機体というものであり、切り取られた花の束とは違います。そして、これこそが、ただの人の集団、キリスト教徒の群衆、組になってまとまっているだけの集団と、霊的な有機体、すなわち、その場所に表現されたキリストのみからだとの違いです。そして、これこそが、神の願いである主のみからだであって、ただの人の集まりではなく、花束でもありません。しかし、ああ、主の民は、あまりにも切り取られた花束に似ています!確かに、みな同じ種類ではあります。彼らは、キリスト教徒であり、神の子供たちであり、みな、同じ主のいのちを共有していますが、ああ、彼らは、同じ場所に置かれたひとつの有機体として成長し、その中で神も盛んになっていくことはないし、皆が共に死と復活という発作の苦しみを通ることによって、その中で霊的に大きくなってゆくこともありません。・・・


そう、彼らは、確かに、主のものであり、同じ主のいのちを持っており、みな、主の子供たちです。しかし、彼らは、ある決まった地点まで達すると、そこから先へ進むことはありません。これが真実です。これが間違いのない事実であると、私は多くの経験から確信するようになりました。悲しいことに、彼らの多くは、先に進みたいという気持ちがなく、そして、もっと先へ進むことが必要だと薦められると、多くの者が怒りを感じます。しかしながら、神が願っていることは、これとは全く違います。神の願いとは、ひとつにつながった根と木が、生きた有機体として、そこここに生じ、それが、キリストご自身の姿を象徴し、表現するようになることです。植物は成長し、増え続けてゆきます。花束の花は、ただ消え去ってゆき、そこで終わります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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