2020年2月22日土曜日

【Daily Open Windows】2月22日

二月二十二日

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第二コリント一・九)

ご存知のように、主の民ではない人たちは、自分が実は死んでいるという事実を知らないまま、生きています。肉体の死が近づくまで、彼らにとって、死は大きな現実ではありません。彼らの日常生活の中で、すべてがうまく進み、身体も健康で、必要が満たされているあいだは、死を気にかけることすらありません。しかし、神の子供であれば、死は、いつも心の中にとどまって離れないものです。神の御手の中に入るとすぐに、このことが心の中に入り込んで来ます――すなわち、私たちには、よいところなどない、立ち向かう力がない、やりとげることはできない。生まれたままのいのちや、持って生まれた能力は、ここでは何の役にも立ちません。真のキリスト者が、神の御手の中で生きる道は、どこにも助けのない経験へと、何度となく、突き落とされる道です。そうでは、ありませんか?そう、助けのない道、自分では何一つできない道です。こんなふうにいつも考えているようになっても、何かが悪い方向に動いているとは考えないでください。もし、神との関わりの中で連れてこられた領域にいながら、自分には何の資質もないことに気づかなければ、あなたは、それが自分が霊的に未熟な段階にいるからだと思い込むかもしれません。あなたは死人のようなものです。死の真実は、あなたの心の中に入り込み、そこで現実となったのです。


ああ、しかし、その一方で、よみがえりが、この事実の前に立ち向かうようなかたちで存在しています。この背景のゆえに、そして、この基盤の上に、神の子供は、ますます、こう言わざるを得ない状態へと引き寄せられてゆきます、『あれは主から来ていた。これは主から来ている。僕はそれを説明することはできないし、私はそれを説明できるようなものではない。それは全て、神から来ている。』そして、よみがえりとは、すべてが神から起こされたものであることを、あなたがたは十分に知っているはずです。どれだけ多くの優れた知恵や、新しい考えの中で生きていこうとも、死者をよみがえらせるなど、とても手の届かないことです。それは、神だけに許される特権です。まさしく、神だけです。

だからこそ、神の御手の中で、神の子供は、ひたすら、前へ前へと、休む間もなく押し出され、そして、たどり着いた場所で、彼らはただ、『それは神から来ている、すべてが神から来ている』としか言えなくなり、これこそが、そこで出てくる証しです。主はこれをされた、主はこのことをしている。このようなことは、荒野でのイスラエル人の歴史の中になかったでしょうか?彼らが何度となく、終わりまで導かれ、そこが今度こそ終わり・・・その先にはもう何も無いと信じたのに、そこからまた、この新しい歌とともに、同じことをまた始めさせられたのです――『主がこれをされた!』それは死に対する勝利であり、よみがえりのいのちの力です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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