2020年2月6日木曜日

【Daily Open Windows】2月6日

二月六日

このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず・・・(使徒十三・二十七)

読者の皆さんに念を押したいのですが、ここで語られることは、聖書をつかさどる、ある非常に大きな原理に基づいています。それは、聖書のことばよりも深いところから聞こえる声があるということ、すなわち、ことばを聞きながら、その声には気づかずにいることはあり得た――今もあり得る――ということです。ことばは、ものごとを言い表すものであり、声とはその意味です。これが、イザヤ書六章九節にも明かされている事実であることは、これまでに説明しました、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ(余白には、「いつでも」)。だが知るな。』これが、最初に引用した聖句、使徒行伝、十三章二十七節の背後にある状態なのです。


キリスト者に――指導的な立場にあるキリスト者でさえ――この御霊の声を聞く耳がないために、人をひどく驚愕させ、たじろがせるるようなことをしたり、語ってしまうことがあります。たちの悪い評判を立てては、それを広めたりするのですが、その評判は、まったくのでっち上げであり、他の者や主の御心に対して、ことばに現れない傷を与えます。これは、彼らは御霊の内を歩んでいないため、心の中に、『それは真実ではない』と言ってくれる方がいないからです。人にとって、キリスト者の教義信条として聖霊の存在を信じていることと、『真実の御霊』が心の内側で、何が真実で何が偽りなのかを解き明かしてくれていると気づくことは、まったく別のはなしです。聖書の『残される者』と『勝利を得る者』のどちらも、この『声を聞く』と記されていることには大きな意味があります。イエス様は、主にあるいのちか、それとも、死かという究極の選択を、この『人の子の声(ことばだけではない)を聞く』ことの上に置かれました。『安息日ごとに、』彼らは言葉を聞きましたが、声は聞きませんでした。・・・私たちは、サムエルのような耳を持てるように祈りましょう。

『ああ、私にサムエルの耳をください、
開かれた耳です、ああ、主よ!
生きていて、あなたのささやく
ひとつひとつのみことばを聞くにさとい耳を!』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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