2020年2月12日水曜日

【Daily Open Windows】2月12日

二月十二日

肉によって生まれた者は肉です。(ヨハネ三・六)

何でも分析したい気持ちに捕らわれてしまうことは、誰にでもあります。そうなると、あらゆることを議論し尽すことを好み、あらゆることを論理的に説明しようと試み、あらゆることを自分の頭脳、自分の判断力という顕微鏡で調べずにいられず、何ごともこのようなかたちで見通すことしかできません――そして、このようなかたちで理解できるまで、何ごとも受け入れようとしなくなります。こうなると、この人は、ある問題について、分析し、また、調べ上げずにいられない気持ちになり、全ての疑問に対して、あらゆる面から見て完璧な答えを見つけるまで、どんな回答も受け入れようとはしません。このような人の歩みは、とても遅いものになるでしょう。宗教的な激情が力強く波打つことによって初めて、自分は神なるものの中に入ることができると信じている人も、同じです。これは今、悪魔が仕掛ける最大の罠のひとつです。宗教的な感情は、基準とはなりません。それは、真の霊性の土台とはなりません。主の知識を得るため、本当に限られたその知識の一端を得て、その初めの一筋の光を見るためには、私たちの霊が御霊によって目覚めさせられ、照らされていることが必要です。神のことでいう前進とは、私たちの内なる人の成長のことに他ならず、真実を把握するために知的な能力を認めることとは違います。事実とつながり、事実に近づくことによって、いろいろな考え方を理解し、真実と教理を推し量る能力は、増してゆくかもしれません。たとえ、もう理解すべきことがほとんどなくなるまで、その能力が高まっていったとしても、そこに本物の霊性は、計ることもできないほどごくわずかしかないこともあるのです。・・・神の子供とは、その霊が新しくされた者であり、その存在の中心において、神との一致と交わりを持つ者のことです。この一致と交わりは、生まれたままの人間が持つことはなく、また、新しくされた霊の他にはどのような場所にも生まれないものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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