2020年2月11日火曜日

【Daily Open Windows】2月11日

二月十一日

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。(ガラテヤ三・二十四、二十五)

啓示によって、それまで目の前にあったものが、一時的で、暫定的なものに過ぎなかったと示されることがあります。・・・パウロは、これを、私たちをキリストのもとへと導き、キリストに続く道を示すための『養育係』ということばで表しました。タルソのサウロにとって大きな試練となったのは、その時まで、自分は正しい人だと信じ切っていたのに、実はそれが、まったく異なる真実へと彼を導くことが目的であったという事実の光を、心に受け入れられるかということでした。主は、そのご支配の中で、ご自身の最終的で完全な目的から外れた、一時的なものの中に、私たちを入り込ませることがあります。これが、私たちをある地点まで導き、その地点まで達したところで、また、別の何かが入り込んでくるのです。そうなれば、その地点で、ある啓示が与えられて、私たちは言います、『そう、これはもう、十分に目的を果たしたし、ここで終わりにして、もっと大きな豊かさへと向かうときが来たのだ』と。そうなるかどうかは、私たち次第であり、主が自分をここに導いたのだから、ここが最終地点だと決めつけてしまって、主が、私たちをさらに先へと導こうとしていることに気づかなければ、それで終わりです。


神が用いてきたこと、おそらくは、神に祝福されてきたことを振り返って、人は、よくこんなふうに言います、『そうだな、これが神から来ているなら、私たちはその道から離れてはいけないし、このこととともに、または、この中に、ずっと留まるべきだ。』それが、いつも正しいとは限りません。パウロにとって、苦しい試みとなったのは、それまでもっとも大切だったものが、間違いではないにしろ、一時的なものに過ぎなかったことが、あの光の中で完全に啓示された今、彼が、過去を捨てて、神の完全さの中へと入り、そして、より完全な啓示へと心を切り替えられるかということでした。こうした事実をひとつにつなげてみれば、これが、天から示される幻に従順に振る舞うかという問題であることが分かります。天からの幻に対するこの従順は、代償が伴うからです。そこには、必ず代価がついてきます。これまでに語られてきたすべての場合において、何らかの代償がありました。すなわち、代償が払われなければならなかった、別の言い方をすれば、困難と向かい合わなければならなかったということです。そこでは、非常に多くの誤解を受けるし、一人だけで進まなければならないこともよくあるでしょう。このことに気づかなかった他の人たちは、行程について来ることはできません。そこには、孤独、誤解があり、また、天から示される幻に従順でいようとする中で、他にも多くのかたちで苦しみが生じることになります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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