2020年2月3日月曜日

【Daily Open Windows】2月3日

二月三日

もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(ガラテヤ六・一)

私たちのために、主が十字架においてなされたことの偉大さ――すなわち、私たちをご自身の豊かさへと導き、全ての敵を屈服させたこと――を、どのようなかたちであれ、本当の意味で、霊的に理解し、感謝できるようになれば、私たちは心のない者でいることはできないし、矮小で狭量であることもできず、寛容であらねばなりません。キリストの内側という大きな場所に自分がおかれておるからです。これは、このようなかたちで実現されます。すなわち、主が十字架で私たちのために成してくださったことを、より強く理解し、感謝するほど、私たちは、他の人たちにより寛大に――よりがまん強く、より寛容になり、そして、悪意に対してそのまま悪意で返す心を捨て、人の過ちを受け入れて、耐え忍ぶ気持ちを持つようにならなければなりません。相手が間違っていると感じたとき、すぐに、互いの非を攻め立てるようであれば、主の十字架の苦難を、ほとんど理解できていないことになります。大きな寛大さをもって、非常に多くのことを黙って見逃すようでなければなりませんし、霊的に高く引き上げられていれば、天にある私たちの場所のその高さのゆえに、恵みがすべてに打ち勝つはずです。天にある街々が支配し、天なる生活では、恵みがすべての上に立つものとならなければなりません。あなたがキリストにあって天的ないのちに達した時でさえ、そこでは、過ちに対する備えがされています。そこで、完璧で罪のないものになるのではありません。あなたが天的な生活に入っても、あらゆる欠点、失敗、過ち、損傷が消え去るようなことはありません。そこでも、うまく行かないことだらけで、それに堪えるために恵みが必要なことは、以前とかわりがないように思えます。このように、霊的になってその位置に達したとしてもなお、そこにも間違いはあるはずです。主は、それに対しても、恵みがあると言われます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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