2020年10月31日土曜日

【Daily Open Windows】10月31日

十月三十一日

あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。(第一列王記十八・二十一)

これは、救われていない人たちに向けて発せられた言葉ではありません。決して、彼らに聞かせるための言葉ではなかったのです。救われていない者が、このような二つの考えのあいだで揺れていることは極めてまれです。ほとんどの場合、彼らには何の考えもありません。預言者は、実際にこの民にこう言いました、『あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか?』彼は、この人たちが、弱々しく、あやふやな気持ちのために弱められ、優柔不断さのために弱められ、未解決の問題のために麻痺しているとみていました。ああ、未解決の問題は、人生をどれだけ麻痺させることでしょう。主との思いの食い違い、主とのあいだの未解決の問題があるなら、あなたの人生全体は弱められ、麻痺しています。今はこちらの道、次は向こうの道とよろめいていて、進む道は、ひとつに決まりそうにありません。

2020年10月30日金曜日

【Daily Open Windows】10月30日

十月三十日

知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。(第一コリント八・一~三)

現実に、私たちは霊的な知識において(情報、事実の知識という意味です)、自分の本来の限界を超えるほどに、大きく前進していきながら、恐ろしい状況に陥ると、これまで何年もかけて積み上げてきたものが何の助けにもならないことに気づいて、大きな衝撃を受けることもあります。大きな出来事に直面して、こんなふうに言うしかありません、『知っていたつもりの現実を、私は理解していなかった。今までの知識は、何の助けにもならない。私は今、主ご自身の個人的で、生きた本物の知識の中にある礎へとまっすぐに引き戻されている。』ここで危険なこととは、もちろん、これまでに私たちが受けてきた全ての教えを投げ捨て、こんなものには何の価値もないと言ってしまうことです。実際には、価値がないのではありませんが、神の考えを頭の中で知ることと、聖霊が神の目的を達成するためにその知識を用いることは、全く違うと、私たちは気づかなければなりません。ですから、私たちは、ひとつひとつの知識の断片を持ち出して、主に本当の意味で吟味していただくことが必要です。そのひとつひとつを見ていただくとき、私たちの態度はいつも、このようであるべきです、『主よ、これまで私が聞いてきたことが、ただ聞いただけで終わってきたと示される、そのような時が来ないように助けてください。私が聞いてきたことを、神の目的に達するための聖霊の活動の基盤としてください。』

2020年10月29日木曜日

【Daily Open Windows】10月29日

十月二十九日

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(ローマ十一・三十六)

旧約と新約と呼ばれる二つの聖書、または、旧約聖書を年代別に分けて、たくさんの異なった書物が存在するのではないことを、私たちははっきり心にとめておくことが必要です。二つ、または、もっと多くの表現方法が使われることはあっても、聖書全体を通して、始まりから終わりまで、そこに表されていることはただひとつです。時代に分けて扱ったり、また、各時代に異なった性質に着目するという、私たちがよくやる聖書の読み方は、類型論と象徴主義だけを用いる方法と同じように、機械的な考え方をさせる効果はあったかもしれません。ですから、私はここをあらためて強調したいと思います。いくつかの異なった表現を用いながらも、神は、初めから終わりまで、ひとつの考え、一貫しただひとつの考えだけをもって働いておられます。その考えとは、あらゆることが、いつ、どこであろうと、御子を現し、御子に従うということです。

2020年10月28日水曜日

【Daily Open Windows】10月28日

十月二十八日

あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(第一ペテロ二・九)

『あなたがたは、聖なる国民』、すなわち、この世から神へと切り離された国民です。新生が意味しているのは、ああ、まさにその始まりの時点で、このことが決して変わらないと、すべての者たちに明らかにされたことです。主イエス様は、このことで疑う余地を全く残さず、そこで、完全で絶対的な分断が生じました。主は、民に対してあえて、危険を冒されます。あなたは、こう言いたくなるのではないでしょうか、『ああ、なぜ、彼らを遠ざけるのだろう、なぜ、彼らが気分を害するようなことをなさるのだろう、なぜ、いつでも、「これは違う、これは別、それも違う」と言い続けて、彼らの心をくじくのだろう?』ああ、この大きな危険を冒さざるを得ないと主が思われたのは、この現実、この恐ろしい現実のため、すなわち、どのようなかたちであれ、神に従わないこの国にあなたがしがみついている限り、天の御国を受け継ぐことはできない、それは絶対にあり得ないという事実があったからです。・・・・新約聖書はこのこと、すなわち、神聖さの中の歩み、心の中、霊の中、いのちの中で、この世から切り離されて、神へと向けられたこの歩みについて、非常に多くのことを語っています。そして、キリスト者としての生活の中、御霊の手の下で私たちが受ける教育、霊的な教育と訓練の非常に大きな部分が、私たちのこの混乱した状態を正すためのであることを、知ってさえいたら。・・・・

2020年10月27日火曜日

【Daily Open Windows】10月27日

十月二十七日

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ二・十)

これまでの人生を振り返ってみてください。仕事の中で果たしてきた役割りを思って、失望することがたくさんあるかも知れません。自分の中で、たくさんのつまづき、不注意を犯してきたことに気づくのではないでしょうか。時には、自分がその仕事に適していない、神が間違えたに違いないと感じたかもしれません。私たちの中にもそう思った人がいます。しかし、神が私たちにされることを、もっと深く見つめ、神の原理を知るにつれ、その中にあるすばらしい論理に気づくようになります。あなたと私は、何かのために召され、何かの理由があって神に引き寄せられ、神によってある場所に置かれたのに、神が何か間違えたのではないかと感じています、『私はこれにふさわしい人間ではない、私はこれに関わるべきではなかった、私はこれをする資格はない、あらゆる意味で、私はこの役割にふさわしくない!』それでも、神は、何があっても、そのようにされます。神は、あなたに力を与え、あなたを最後まで支え、その働きをやり遂げて、あなたはそれに驚き、驚嘆します。あなたが聖霊を受けるとき、それは成されます――すなわち、自分自身の有様を知って、自分の中に沈み込むこんだり、あきらめて、逃げ出すことをしなければ――あなたは、聖霊をしっかり掴んで、成すべきことをやり遂げ、そして、自分がやりぬいたこと、主があなたを通し、私を通して、これをやり遂げたことに驚嘆することになります。これは、神の原理と整合していて、相反するところはありません。神のもっとも奥深い原理と、完全に一致しています。主の臨在のもとでは、肉が栄光を現すことはありません。すべてが神に帰ってきます。神は――気をつけてください―――『この世の愚かな者、・・・この世の弱い者・・・無に等しいもの』(第一コリント一・二十七、二十八)を選ばれたのです。これは同じ者をさしており、主はこのような者たちを選ばれました。完全に首尾一貫しています。そう、主の道は、何と測り知りがたいことでしょう。『神は実に不可思議なかたちで入り込み、その奇跡をなされ』ますが、それでいて、常にご自身の原則に沿って行動されています。

2020年10月26日月曜日

【Daily Open Windows】10月26日

十月二十六日

彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。(第一列王記十九・九)

『あなたがここに来ても意味はない』――主はこう言われています。そう、預言者や使徒たちも間違いを犯すおそれがありましたし、実際に、間違いを犯しました。しかし、ひとつ大切な点があります――すなわち、彼らは主の御心を見ており、自分が見た主の願いに対して、自分を捨てきっていたので、主は彼らが犯した間違いの上に豊かに臨み、自らの権威でその間違いを打ち消した上で、しもべたちに、主ご自身とその道を重ねて教えることができたのです。さて、はっきりした態度を示さない人には、このことは起こりません。あいまいな態度をとる人たち、真摯に仕える気持ちのない人たち、自分を捨てきっていない人たちは、主のことを何も学びません。自分を捧げ切っている人たち、主から光が与えられたときは、その強さにかかわりなく、光の方向へと自分をゆだね、まっすぐに進んで行く人たち、一面では、自分の過ち――熱心さから出た過ち――が、神の権威によって取り払われ、消し去られているところを見る人たちこそ、別の面から見れば、まさしくその過ちを通して、主の御心とは何か、また、主はどのように働きをされるか、どのようにして働きはされないかということを、主ご自身から教えられる人たちです。不確かで定まらない心のまま、待ち続けるだけで、すべてを理解できるまで何もしないつもりでいたら、私たちは何も学ぶことはないでしょう。

2020年10月25日日曜日

【Daily Open Windows】10月25日

十月二十五日

なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。(ハバクク一・三)

民と神の働きがうまくかみ合っていないとき、何かの宣言が発せられたとき、明白な神の性質が失われたとき、神が望んでいないのに、何かが足りなくなったり、過剰になるとき、預言者の働きが始まります。預言者は、原則として、危険な流れや良い方向への変化に対する主の応えを――自分自身の中に、または、幻を通して――代弁する者です。預言者は、何があろうと神と同じ土台に立ち、流れは彼に打ち付けます。この預言者の能力は、霊的な知覚、判断力、そして、洞察力から成っています。預言者は全てを見通し、他の誰にも見えないものを見ています。それは、幻であり、そこに映るのは、前向きさ、『はたらき』、企てといったことだけではありません。そこには、今の状態、状況も示されています。それは、預言者としての働きを進めるためではなく、主を貶め、悲しめる霊的な状態があることを現すためです。

2020年10月24日土曜日

【Daily Open Windows】10月24日

十月二十四日

そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。」(マタイ十五・十二、十三)

今日の世界にある組織的なキリスト教は、組織化されていないもの、宣伝されないもの、人の手で運営されないものを全く理解できません。そこには、人の心に訴える大仰な名前がなければなりません。立派な肩書きを持った人たちを集めれば、あなたのキリスト教団体は、成功が保証されます。こうなると、書面や肩書きをぶら下げていることが、主の働きを成功させるための要件ということになります。あなたは、こういったことを公式の媒体に書いき、報告を読んだ人に、『この団体は実を結んでいる』と答えてもらえるようでなければなりません。それができなければ、すべてが失敗に終わります。彼らは言います、『あなたは、もっと宣伝して、知名度を上げなければいけない。組織を作らなければいけないし、支持者をたくさん集めて、団体を支え、維持していかなくてはならない。』もしも、こういったことを何もせず、媒体の中で人の目にふれることがなく、あなたのことを誰も記事にしてくれず、名前も知ってもらえず、また、公けの場で人々が目を留めるようなものを何も生み出せなかったら、組織化されたキリスト教は、どのような判決を下すでしょう?『何も行われていないではないか。あなたは、何ひとつしていない。陰に隠れて、こそこそしているだけだ。』本当にそうでしょうか?これに対して、私たちは何を言うべきでしょう?

2020年10月23日金曜日

【Daily Open Windows】10月23日

十月二十三日

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(第一ヨハネ五・十一)

私たちの証しがどのようなものか、それは全て主をどう理解しているかに拠ってきまります。もし私たちが、教え、伝統、解釈、人間の集まり、キリスト教に頼っているなら、大切なものを見逃すことになりますが、生ける神の方を向けば、主が生ける神であることを認める中で、主にあるいのちに入ります。その瞬間から、この全てが、私たちの経験の中で生き続けることになります。これは、言っても言わなくても、どうでもいいことではありません。初めに言ったように、私たちは皆、目を覚ましますが、起きるのが遅すぎた者もいます。私たちを眠ったままにしておいたものとは――不安な気分、不平不満、心変わり、嘆息とうめきを憶えながらも、私たちは自分が眠っていることに気づいていなかったのですが――人生の早い段階から、キリスト教や神の民の行いと関わりあってきたことでした。私たちにとってキリスト教、主との関わりは、まだ幼子だった頃から始まっていたものであり、その時から、主に関わる教えをまとめた制度の中に、私たちはずっと馴染んできたのです。私たちは、祈りを口にし、会合に集うことなどを教えられてきました。ある日、私たちは目覚め、この神は生ける神であるという事実に目が開かれました。私たちはこれまで長いあいだ、あるかたちで主と結びついてきましたが、そこでは、主は、個人的なものではなく、生ける神でもありませんでした。

2020年10月22日木曜日

【Daily Open Windows】10月22日

十月二十二日

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。(黙示録十八・四)

礼拝という面から見て、霊的な生き方とは何を指しているのでしょう?ああ、それは教会の建築様式のことではないし、祭服でも、しきたりでも、典礼のことでもありません。こういったものは、十字架によって捨て去られたのであり、それにいつまでも固執することは、十字架とは相容れません。今日の私たちを見てみましょう。このような類いのものを守ろうとするのは、主イエス様がもたらしたものを、正しく理解していないからです。・・・・では、なぜ、神が十字架において退けたことをいつまでも手放さず、低いところにとどまって、高きに至ることができないのでしょうか?この世界が、どこから道を誤ってしまったのか、あなたにわかりますか?

2020年10月21日水曜日

【Daily Open Windows】10月21日

十月二十一日

いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(使徒七・四十八)

キリスト教世界は、(美的な)感覚によって作り上げられている面が大いにあります――建築物、儀式、音楽、装飾品、照明(または暗さ)、調子、雰囲気、衣装と言ったものです。こういうものは、すべて魂に属しています。・・・・このような世界の特徴とは霊的な死であり、そこに、決意、『高き』考えと願いを求める気持ちはあっても、その世界に住む者たちの性質が純粋に変化することはなく、また、魂を自己満足させ続けて、良い気分でいるために、こういったものを摂り込み続けていくしかありません。あらゆる宗教は、この『魂』的に見える特徴を、大なり小なり、共通して持っています。たくさんの宗教的な人々が、致命的な過ちを犯したのはまさにここです。この人たちは、他のどの宗教も疑いなく敬虔で誠実なのだから、互いに干渉せず、それぞれの良いところは認め合い、受け入れるべきであると主張しています。ここでは、宗教を、聖書が意味する霊的であることと混同しているのです。宗教は、高い水準まで上がることもあり、また、ひどい深みまで沈むこともあります。ひとつのことが、その両方を同時に行うのです。しかし、それは人間の水準より上に行くことは決してできず、本当の神に届くことはありません。宗教とは、サタンが使う欺きの手口であるため、神の真摯な願いに対する最大の敵ともなりえます。禁欲的な生活も、霊的でないという意味では、欲におぼれる生活と同じです。厳格さ、自制、断食、禁欲的な冷たさなどの中は、真逆の行動と比べても、神の心にうったえるものはありません。純粋であることは、神に届く機会となるかもしれませんが、必ずしも霊的であるとは限りません。これは好みの問題なのかもしれません。・・・・

2020年10月20日火曜日

【Daily Open Windows】10月20日

十月二十日

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ十六・三十三)

霊的な人が、形式的、伝統的、名目的、そして、『生まれたまま』の人と対峙するとき、そこには、必ず患難が生じます。これは、もはやこの世からの反応ではなく、宗教からの反応でもあります。もって踏み込んで、それはキリスト教からの反応と言ってもいいでしょう。一方にある形式的で、伝統的で、名目的で、『生まれたまま』のキリスト教と、これとは別の霊的なキリスト信仰のあいだには非常に大きな違いがあります。実に大きな違いです。この違いがあまりに大きいので、この二つが出会うところは戦場ともなります――患難に満ちた戦場です。

2020年10月19日月曜日

【Daily Open Windows】10月19日

十月十九日

永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。(エレミヤ三十一・三)

『わたしはこれまで、ずっとあなたに堪えてきた。あなたを愛しているからだ。あなたの身に、何が起ころうとも不思議ではなかったが、そうさせなかった。わたしはあなたに限りないがまんと忍耐、そして、あなたの永遠の幸せのために真摯な心遣いを示してきた。それも、あなたを愛しているからだ。わたしはあなたを生かし、この時間、この場所へとあなたを連れてきた。わたしはあなたを去らせなかった。』ああ、この言葉は、私たちの胸に迫らないでしょうか!自分では気づいていなくても、ただ神の限りない愛の故に、この呼びかけを今、聴いているのであり、その愛が、このことを教えるために、この時まで私たちをとどめておいたのかもしれません。

2020年10月18日日曜日

【Daily Open Windows】10月18日

十月十八日

私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。(第二コリント二・十~十一)

おそらく、『サタンの策略を知らないわけではない』人たちのもっとも明白な問題のひとつは、具体的に主の役に立とうと考えた上で、神のための特別に霊的な行動を地上でしてこなかったことですが、このような行動に対する、サタンの敵意は、分裂、離脱、不和、分離、そして、交わりの妨害といったかたちを取って現れてきました。そして、分裂してしまった人たちは、神のことでは、お互いと一切、交流すべきではなかったのに、いつでも、本当にひどい心の痛みと傷が、壊れずに保たれているかのように、偽物の愛によって、うわべだけ繕われてきたのです。もう一度、強調しておくと、愛とは、『すべての人』に向けることを、主の民に課せられているものであり、それは、『家族の人たち』でも、他の人たちでも同じです(ガラテア六・十)が、交わりとは、それより大きなものです。ここで他の何よりも大きな衝撃を受けるのはもっとも霊的なものごとであり、繰り返しますが、ここに、サタンの大きな特徴があります。

2020年10月17日土曜日

【Daily Open Windows】10月17日

十月十七日

管理者には、忠実であることが要求されます。(第一コリント四・二)

神の目から見てもっともすばらしい美徳は、忠実さであると私は信じています。それは、すべてを包み込むものです。忠実とは神ご自身の心に従うことです。この管理者、使徒パウロの言葉を拾ってみましょう。『デマスは、私を捨てて行ってしまい・・・』(第二テモテ四・十)、『・・・アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました・・・』(第二テモテ一・十五)。忠実さを呼び起こすははずだったものが、すべて崩れ去ってゆくときの彼を見てみましょう。彼は事実上、一人で取り残されました。これまでにないほど、多くの敵に囲まれています。そして、悲劇的なこと、無念なことには、今の敵の多くが、かつて彼が仕えてきた相手であることです。

2020年10月16日金曜日

【Daily Open Windows】10月16日

十月十六日

こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ十五・六)

私たちの中へのキリストの啓示は、それが真実で本物の生きた啓示であれば、安定と確実さと自信、驚異と新鮮さと主のいのちへと導き、また、それを生み出すだけではなく、孤独へとつながるものでもあります。このことを、まだあなたに伝え、説明していなかったら、私は不誠実だったことになります。これは、キリスト者でさえ、その大部分は今も、伝統に縛られたままでいるからです。彼らはなお、私たちとは違います。彼らが受けたものは全て、人間を通して、また、人間から受けたのです。キリスト教という既に完結して、擦り切れてしまった真実と教義の制度を受け入れてしまった人たちです。彼らは、この制度の中に入り、取り込んでしまったので、その先を見通すことができません。

2020年10月15日木曜日

【Daily Open Windows】10月15日

十月十五日

それは啓示によって上ったのです。そして、私の宣べている福音を、人々の前に示しました。(ガラテヤ二・二)

神のための新しい働きは、いつでも、そのために選ばれた者たちへの啓示によって始まるということ、これは非常に大切です。神がこのように語られ、選ばれた器たちに啓示を与えて、真に霊的な働きが成されたので、他の者たちはそれを手本としてとらえ、別の場所でそれを模倣しようと試みました。その結果、彼らはその責任を負うように――奉仕者、資金や様々な助けの源を探すように召されてきたし、今も同じことを求められています。これによって、今度は多くの悲しく痛ましい、場合によっては邪悪で世俗的な手段と方策が用いられることになり、そこで召された者たちは、自分が誤った立場にいることに気づきます。模倣ではなく、受胎が、新生をつかさどる神の法です。人間による選別ではなく、油注ぎが、継承ををつかさどる神の法です。事実、神の働きは、そこで様々な生まれつきの性質が表に現れ、満足を見出す領域となってしまっています。人は何かをしたり、何かを見たり、何かを持たずにはいられません。野心、獲得、達成と言ったものが、キリスト者としての活動の前面に現れたため、ほとんどいつも(率直に言わせていただきますと)、『私たちのもの』――『私たちの働き』、『私たちの役目』、『自分の分野』、『自分の担当』が大切になってしまい、そこには、妬み、競争心、敵意など、肉に属する多くのことであふれています。

2020年10月14日水曜日

【Daily Open Windows】10月14日

十月十四日

私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第二コリント一・八~九)

自然の道理として、私たちは情報のみから本当に生きた学びをすることはできません。ただ『耐えられないほどの圧迫』を受けることによって、本当の意味で物事の良い面に達することができるのです。だからこそ、主は長い時間をかけて、霊的な経験を積み上げなくてはいけません。長い時間を経て、目が開かれるとき、私たちは叫びます、『ああ、なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう!』しかし、他に何をしても無駄だったのだと自分で理解するまで、真実を知ることはできず、それには長い時間がかかります。このために、私たちの目が、あの暗闇の中でローマ書六章と向けられたとき、実際に耳に聞こえるような言葉で、主は言われたのです、『私が死んだとき、あなたも死んだ。十字架に向かったとき、私はあなたの罪だけではなく、あなた自身をもそこへ連れて行ったのだ。あなたを連れて行ったとき、わたしは、あなたが自分で思っていたような罪人としてだけではなく、生まれたままのあなたをすべて受け入れたのであり、あなたの良いところ(?)だけでなく悪いところも、あなたの能力だけでなく無能力さも、そう、あなたが持っている全ての資質をわたしは受け取った。わたしは、あなたを、『働き手』、『説教者』、まとめ役として取り上げた!わたしの十字架が意味することは、あなたはあなた自身のままでは、わたしの助けにはなれないし、私のために何ひとつできず、何かの役に立てるとすれば、それはわたしから来たものでなければならないということであり、それは絶対的な依存と信仰の人生を意味している。』

2020年10月13日火曜日

【Daily Open Windows】10月13日

十月十三日

メラリ族に任じられた務めは、幕屋の板、その横木・・・についてである。(民数記三・三十六)

ここで板だけでなく、横木にも触れられていることを、私は嬉しく思っています。横木は、全体をひとつにまとめるものであり、そして、この横木にいつも気を付けていれば、分派を起こしたり、個人的な好みで行動したり、一人二人と仲良くなった人たちが、勝手な方向に離れていくこともないでしょう。キリストの御体においては、排他的な考えなどなく、人間的な好みだけで決まるものもなく、全ての部分がひとつにまとめられていることを忘れてはいけません。それが責任というものです。人の好みによって、また、主の民の中で選り好みや個人的な相性が生まれることでどれだけの損害が生じてきたことでしょう!一人ひとりに個人的な支えが必要であり、常に横木に注意して、全てをまとめておくことが必要です。これが、この使徒がこの言葉で言おうとしたことです、『御霊の一致を熱心に保ちなさい。』誰かの味方をして、他の誰かと敵対するようなことをしながら、御霊の一致を保つことなどできません。その人の手助けをしているのだと思うかもしれません。ああ、では、相手の人はどうでしょうか?横木は、人の行いを正し、つりあいを保ち、また、全ての部分にふさわしい手助けをするものです。そして、そこには柱があります。柱には何かが掛けられている、すなわち、私たちにはそれぞれの責任があり、また、私たちは神の前に与えられた責任を果たすにあたって、お互いに助け合わなければなりません。一人一人が自分の責任を負い、神に課せられた荷を運ぶようにと召されているからです。これは、お互いの荷を背負うことです。・・・・この責任は相互に背負うべきものであり、一人一人が自分の重荷を主の前に運びながらも、全体でひとつとなっているのです。

2020年10月12日月曜日

【Daily Open Windows】10月12日

十月十二日

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人に も教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。(第二テモテ二章二~三節)

私たちは、それぞれが異なった類いの働きをゆだねられています。レビ人のある者たちには、こう言ってよければ、他の者より、根本的に霊的な任務が課せられていて、それ自体が聖なる器というべきものでした。これとは別の面をつかさどる働きを負った者もいました。私の責務と言えば、おもに、主の御言葉を伝えることなのかもしれません。非常に多くの人たちが、御言葉を述べ伝えることこそが、『霊的な責務』であると考えています(私は霊的な働きを果たすことが、説教師に限定されているという考え方を断固として拒否しています――これは、霊的な働きに限りません)。ほかにも、商売や家事といった、まったく違った分野で、主のための務めを果たす人たちもいるでしょう。レビ人たちは、働きの種類に応じて、組に分けられていました。中には、とても骨の折れる仕事をしている人もいて、幕屋の重い横木や天板を扱い、つぼ、なべ、金の器などの用具を運ぶ人たちより、肉体的にずっときつい仕事を課せられていましたが、それでも、その全てがレビ人の努めであって、全体がひとつの民、ひとつの種族でした。責任が全員に等しく負わされていたのは、全ての部分が集まって、ひとつの責務となっていたからです。同じように、あなた方の世界では、あなたの働きと私の働きは違っていても、そこにあるのはひとつの責務、ひとつの召し、ひとつの責任、ひとつの証しです。ここで大切なのは、それを引き受けること、それを受け止めること、私たち自身を主の証しに対して責任を持つ者たちと認めることです。

2020年10月11日日曜日

【Daily Open Windows】10月11日

十月十一日

あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように(しなさい)。(ヘブル十二・十五)

キリストの十字架刑の現実的な背景について考えてみると、主の味わった苦しみとは、人の移り気、偏狭さ、恐怖、ねたみ、そして、背信から引き起こされたものであったことが分かります。愛の中で、私たちのために、主はこれらすべてをその身に負いました。そして、同じことによって、私たちの神への愛のあり方も試されているのかもしれません。移り気な群衆は、主イエス様の思いやりとやさしさを簡単に忘れて、根拠のない誤った告発に乗せられてしまい、そのために、かつては、自分たちが感謝し、褒めたたえていたお方に向かって叫びたてるようになったのです。パリサイ人たちは、宗教的な偏狭さに支配されており、残忍なほど不寛容で、人を厳しく律法的に糾弾する者であった彼らは、先頭に立って、主に苦しみを与えました。弟子たちと同様、ピラトも怖れていました。ユダは裏切り者であり、そして、サタンは、自分が妬んでいただけでなく、サドカイ派やほかの人々を嫉妬へと駆り立てました。しかし、これだけの攻撃を主の愛に集中させてもなお、主は、父の御心に細部に至るまで忠実であり続け、主の心をそらすことなどできませんでした。神の愛は、主にとって、敵の苛烈な攻撃、仲間たちの過ち、大衆の強い扇動、また、ご自身の権利などよりも、はるかに大きな意味があったからです。主が、御父の臨在という栄光の中で、休息に入られた時には、愛がすべての誘惑に打ち勝っていたのです。・・・・

2020年10月10日土曜日

【Daily Open Windows】10月10日

十月十日

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ二十六・三十九)

私たちは、この事実と向かい合わなければならないし、また、神の助けを求めて、主イエス様との交わりの中に生きようと思えば、私たちは苦しみの道を進むことになるというこの事実を、常に心にとめておかなければなりません。・・・・私たちにも、腰を落ち着けて、算段をした上で、次の事実をはっきりと心に認めるときが必ず来ます――すなわち、その時点では、私たちが受けている苦しみが、自分の主との関係から来ていることを全く理解できなくても(その苦しみは、あまりに多岐にわたり、かたちも様々であり、また、多くの場合、キリスト者としての生活とは何の関係もないように思えます)、それでもなお、私たちが気づくかどうかにかかわらず、神の子供が通る道、イエス・キリストの同労者の通る道は、苦しみの道であるという事実は変わることがありません。あえて言いますが、心の中にこの事実を受け入れることを、後回しにしたり、遅らせてしまうと、私たちはただこの状況が変わることを望み、その時を待つだけの状態から抜け出せなくなります。そして、実際には何も変わらないために、意気消沈して、何もかも間違っている、主が私たちに敵対しているとか、そのような後ろ向きな思いに捕らわれてしまって、私たちの証しを砕く足がかりとして敵が狙っている陣地を明け渡してしまいます。

2020年10月9日金曜日

【Daily Open Windows】10月9日

十月九日

あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ五・十六)

キリスト者としての生活において、私たちが主の御心に自分を合わせなければならない場面が数多くあります。主の御心とは、私たちの肉にとって必ずしも易しいことばかりではなく、何か特定の問題で、主の御心に合わせるために、必死で闘わなくてはならないことが、非常に多くあります。そして、祈りとはこのように御心に自分を合わせるための時間です。今夜、ここに集っている皆さんの中にも、何かのことで神の御心と闘っている方もいるかもしれません。そう、今こそ、その問題に片をつけるべき時です。祈りの時間は、あらゆることで神の御心と完全に一致する大きな機会を与えてくれるものです。・・・・

2020年10月8日木曜日

【Daily Open Windows】10月8日

十月八日

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ十二・五)

ここにある『からだ』ということば、用語は、単なる比喩ではありません。主のみからだの各部分のキリストに取っての存在意義は、私たちの肉体の自我に取っての意味と同じです――すなわち、それは、自分を現し、思いを表現し、また、何かを伝える手段なのです。この真理は、何よりも際立っていて、生活と奉仕のすべての問題の根源にまで至るものです。『主のために働くこと』、『主に祈ること』などには、その効果の大きさを左右する、より深い法則があることが分かります。

2020年10月7日水曜日

【Daily Open Windows】10月7日

十月七日

パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。(第一コリント十・十七)

私たちは祈りの中で、キリストを自分の身体に取り込んでいます。見方を変えれば、祈りの中で、信じる者たちへと、主ご自身が移ります。私たちは疲れ切って祈りに向かい、新鮮な気持ちで立ち上がることができます。消耗し切った状態で祈りに入り、生まれ変わって立ち上がることもできます。私たちはただ、形式どおりの祈りの言葉を口にして、何かの祈りを捧げたのでしょうか?そうであれば、元気を取り戻して、立ち上がることはできないことを、私たちはよく知っています。形式的な祈りは、主のいのちを運ぶことはありません。形式的な祈りは、死をもたらすこともあります。しかし、本当に主を求めること、手を伸ばして、主を掴むこと、祈りの中で自分自身を主に捧げ切ることは、必ず、気持ちを新たにし、前向きにして、心を強めてくれます。祈ることで、疲れ切ってしまうのですか?それでも、祈りの中で疲れ切ってしまうことで得られるすばらしい力があるのです。肉体的には疲弊させる祈りの中でさえ、霊的ないのちに与えられる活力があり、私たちはその力をもって進んで行きます。確かに、祈りとは、聖霊がキリストを私たちの内に送り込む手段です。祈りとは、それを通してキリストを体に摂りこむ道です。主が私たちのいのちとなります。・・・

2020年10月6日火曜日

【Daily Open Windows】10月6日

十月六日

もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(ピリピ二・一~二)

御霊の交わりとは、霊にある交わりのことです。しかし、繰り返しますが、これは積極的なものです。交わりは、受け身のものではありません。受身の姿勢で交わってはいけない理由は、あらゆる地獄の住人たちが、交わりを止めるために出てきているからです。地獄がとにかく抗うものがひとつあるとすれば、それは、御霊の交わり、神の民の交わりです。とどまることなく、あらゆる手だてを使って、この悪の力が交わりを破壊しようと試みるのは、この交わりが彼らの完全な破滅へとつながるからです。このため、交わりが中立で受身のものであることは許されません。あなたは交わりのために戦わなければならず、交わりのために立ち上がらなくてはならず、交わりには積極的であらねばなりません。不和をそのまま放置すれば、ひどい混乱が起こって、交わりを正しい状態に戻らせまいとする力が動き始めます!あなたの中に御霊があれば――そして、もちろん、私は、御霊を持っている皆さんに向かってお話しています――ご存知のはずです。すなわち、もし、あなたが属するキリストのみからだなる教会で、他の部分との関係がギクシャクしていたら、そこには、本当に体のどこかで関節が外れたのと同じ痛み、消えることのない痛みが生じます。・・・・

2020年10月5日月曜日

【Daily Open Windows】10月5日

十月五日

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、・・・・自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネ二十一・十八)

常に十字架の原理に常に基づいて生きているのでなければ、安全な場所はどこにもありません。安全であるためには、どうしても十字架が必要です。私たちの手の中に、安全なものは何もありません。主の祝福を受ければ受けるだけ、多くの危険が生まれます。最大の危機は、主が私たちを用い始めるときに訪れます。・・・・私たちの肉に関して言えば、神の富をゆだねられるのは、何よりも危険なことです。ただひとつの安全な場所とは、十字架が今も働いて、私たち自身から来るすべてのもの、私たちが自分だけで行うすべての行動に手を触れてくれるところです。

2020年10月4日日曜日

【Daily Open Windows】10月4日

十月四日

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(第二コリント四・十)

私たちの体にとって、復活したキリストには、大きな価値があります。主のよみがえりのいのちは、この身体に活力を与えてくれます。それは、今のこの身体を主の栄光の体と同じ姿に変えるためではなく、奉仕へと向かわせるためです。死に定められたこの体のために、よみがえりのいのちがありますが、このいのちをどのように用い、選択し、役立てるかは慎重に考えて、決めなければなりません。病にあって、弱められていると感じるとき、座り込んでこんなふうに言っても、意味のないことです、『ああ、主よ、早く来て、私を救い上げ、そして、しっかりと立たせて、回復させてください!』主は決して、そのようにはされません。

2020年10月3日土曜日

【Daily Open Windows】10月3日

十月三日

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ四・十五)

どのような宗教体系も、儀式や典礼で、外面を着飾ったり、内なる生活をそんなもので覆っているだけなら、偽物であって本物ではありません。神の働きとは、人間の性質を作り替えることにあります。そして、そこには、もちろん、二つのことが含まれています。ひとつは、人が砕かれることです。神が、御手の内に入ってきたいのちを救われることを、あなたが少しでも知っているなら、間違いなく、そのために行われべきことがたくさんあります――すなわち、前に進むために砕かれることであり、物事の根本に迫り、私たちに真実を悟らせることです。自分に何かの幻想をいだいていても、神に作り変えられたときには、それはすべて消え去っているでしょう。私たちが、自分自身、あるいは、自分の地位や働きのことで偽りの思いに動かされていたとしても、神が私たちを作り変えたときには、すべて無くなってしまいます。自分がどこまでも汚れきったものに思え、自分の義など、汚いぼろ布にしか見えなくなるまで、主は私たちを砕かれます。主は、私たちが砕かれることを望み、そのようにされます。

2020年10月2日金曜日

【Daily Open Windows】10月2日

十月二日

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(ヘブル一・一、二)

古い時代には、神は、『いろいろな方法』で語られ、多くの部分に分けただけでなく、いろいろなかたちで語られた、とあります。旧約聖書まで戻って、神が語られたすべての方法を見ようとすれば、非常に長い時間がかかります。神は、何千という手立てを通して語られ、時にはことばで、時には行動で語られました。その方法は、実に、『多様』なものでした。しかし、この節で、神は最後には、ただひとつの方法、全てを包み込むただひとつの方法、すなわち、御子において語られると述べられています。終わりの時には、御子ご自身が、神が語られるただひとつの方法、すべてを包含する方法となります。ある面から見れば、イエス・キリストから離れたところで、誰一人、神から何かを受けることはありません。神は、御子においてのみ語られ、他のどのような方法も拒絶されます。神があなたに何を言いたいのかを知りたければ、御子のもとに来るしかありません。別の見方をすれば、イエス・キリストの中に、神が言おうとしていることの全てがあります。・

2020年10月1日木曜日

【Daily Open Windows】10月1日

十月一日

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。(ローマ八・九)

おそらく、ほとんどの主の民にとっての非常に大きな問題は、私たちの中の自分自身から来るものとキリストから来るものを分かつ境界線を明確に保つことでしょう。敵の側からすれば、私たち自身の姿を絶え間なく目の前に掲げて、私たちの心を占めさせ、キリストを見えにくくすることが、効果的な攻撃となります。聖霊がサタンに対抗する最大の目的とは、キリストを私たちの視界に入れ、心を主で満たし、自分の姿をかすませることです。多くの主の民にとって、大きな困難が生じるのはここです。こうしていつもここで、流れがとどめられ、逆戻りして、私たちの思いは、自分のこと、自分は何者なのかということでいっぱいになってしまい、心をキリストだけに、主とは誰であるかということに向けることができなくなります。この二つを隔てる隙間、裂け目、谷間がいろいろなことで埋め立てられ、境界線が拭い去られてしまい、そこに混乱が生まれます。神は、初子から始められます。これが意味するのは、私たち自身とは根本的に異っているということであり、神が何を言われるか、そして、キリストにある、また、キリストが中にいるとみなされている人たちを神がどう見ているかを知ることが非常に大切です。・・・・