2020年10月11日日曜日

【Daily Open Windows】10月11日

十月十一日

あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように(しなさい)。(ヘブル十二・十五)

キリストの十字架刑の現実的な背景について考えてみると、主の味わった苦しみとは、人の移り気、偏狭さ、恐怖、ねたみ、そして、背信から引き起こされたものであったことが分かります。愛の中で、私たちのために、主はこれらすべてをその身に負いました。そして、同じことによって、私たちの神への愛のあり方も試されているのかもしれません。移り気な群衆は、主イエス様の思いやりとやさしさを簡単に忘れて、根拠のない誤った告発に乗せられてしまい、そのために、かつては、自分たちが感謝し、褒めたたえていたお方に向かって叫びたてるようになったのです。パリサイ人たちは、宗教的な偏狭さに支配されており、残忍なほど不寛容で、人を厳しく律法的に糾弾する者であった彼らは、先頭に立って、主に苦しみを与えました。弟子たちと同様、ピラトも怖れていました。ユダは裏切り者であり、そして、サタンは、自分が妬んでいただけでなく、サドカイ派やほかの人々を嫉妬へと駆り立てました。しかし、これだけの攻撃を主の愛に集中させてもなお、主は、父の御心に細部に至るまで忠実であり続け、主の心をそらすことなどできませんでした。神の愛は、主にとって、敵の苛烈な攻撃、仲間たちの過ち、大衆の強い扇動、また、ご自身の権利などよりも、はるかに大きな意味があったからです。主が、御父の臨在という栄光の中で、休息に入られた時には、愛がすべての誘惑に打ち勝っていたのです。・・・・


十字架を担って、主の後を追うように召されている私たちも、主が対決された敵たちと相対しています。友人たちや同労者たちの移り気、神のしもべと主張する者たちからの偏狭な批判、大衆の恐怖心をあおる圧力、サタン自身が人の心に引き起こす誤解と妬み――このような試みが、私たちの愛に対して加えられます。この試みに打ち勝つことを望むなら、私たちには、同じ苦しみを課せられても、御父からの杯として受け入れて飲み干した救い主がおられることを、神の臨在の中で覚えるしかありません。主がいつも父の御心を選ぶことを可能にしたのは、父への愛であり、主の勝利の結果とは、『私たちが、愛をもって、御前で聖く、傷のない者に』されたことでした。人がアダムから受け継いだ、愛の過ちの全てを、神が私たちの中で元に戻そうとしているようにも感じられます。神は私たちを十字架の痛みにさらしますが、それは思いつくまま、冷ややかに行っているのではなく、キリストがすでに私たちのために神へと示されているその愛を、私たちの中に再現して、御自身の御心を成就しようと願っているのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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