2020年10月16日金曜日

【Daily Open Windows】10月16日

十月十六日

こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ十五・六)

私たちの中へのキリストの啓示は、それが真実で本物の生きた啓示であれば、安定と確実さと自信、驚異と新鮮さと主のいのちへと導き、また、それを生み出すだけではなく、孤独へとつながるものでもあります。このことを、まだあなたに伝え、説明していなかったら、私は不誠実だったことになります。これは、キリスト者でさえ、その大部分は今も、伝統に縛られたままでいるからです。彼らはなお、私たちとは違います。彼らが受けたものは全て、人間を通して、また、人間から受けたのです。キリスト教という既に完結して、擦り切れてしまった真実と教義の制度を受け入れてしまった人たちです。彼らは、この制度の中に入り、取り込んでしまったので、その先を見通すことができません。


彼らの誠実さを疑問視したり、その熱心さを疑うことはしませんが、彼らが持っているのは、あまりに使い古されたものばかりであることも事実です。数世紀に渡るキリスト教の歴史を通じて存在してきたもの、これやあれやによって育てられ、形成され、整えられ、多くの教師たちのことばで謳われてきたものです。こういったものは、専門用語、決まった言い方と形式で固められた福音、福音的キリスト教になってしまいました。彼らは、その先を見ていません。そして、その世界にいる人が、外に足を踏み出し、開かれた天とも呼ばれる場所を通って、個人的で直接的な主の知識へと入る時――ただし、聖書から離れた、新しく異質なキリストの啓示を通してではないことに気を付けてください――そして、ある経験を通してこう言えるようになる時、『私の中に御子を啓示することは神の御心にかなったし、私にとって、この経験があまりに現実的なので、時々、このような知識、このような経験を持った人が他にいるだろうかと思うことがある』、このような道を進むとき、私たちは孤独な世界へと入っていきます。大多数のものは、ついてこれないし、私たちとともに進むことができないし、また、理解することもできません。

私には、パウロについても、このようなことが多少はあったし、ほかの使徒たちでさえ、パウロの気持ちをつかみ、理解することはできなかったように思えます。パウロは、いつも一人で動いていたようです。それでいて、ここにもまた、神の大きな恵みが見られます。・・・・パウロでさえ、他の数多くの使徒たちに囲まれながら、孤独な道を進まなければならなかったようですが、これは、啓示がパウロにとってあまりにも、個人的なものだったからです。これが意味すること、ここから理解すべきこと、そして、おそらく、あなたがたのある者は、経験から理解していることがあります。それは、この道を進めば、あなたは大いに孤独な立場へと追い込まれ、他の大部分のキリスト者たちの関わりも失われるということです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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