2020年10月10日土曜日

【Daily Open Windows】10月10日

十月十日

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ二十六・三十九)

私たちは、この事実と向かい合わなければならないし、また、神の助けを求めて、主イエス様との交わりの中に生きようと思えば、私たちは苦しみの道を進むことになるというこの事実を、常に心にとめておかなければなりません。・・・・私たちにも、腰を落ち着けて、算段をした上で、次の事実をはっきりと心に認めるときが必ず来ます――すなわち、その時点では、私たちが受けている苦しみが、自分の主との関係から来ていることを全く理解できなくても(その苦しみは、あまりに多岐にわたり、かたちも様々であり、また、多くの場合、キリスト者としての生活とは何の関係もないように思えます)、それでもなお、私たちが気づくかどうかにかかわらず、神の子供が通る道、イエス・キリストの同労者の通る道は、苦しみの道であるという事実は変わることがありません。あえて言いますが、心の中にこの事実を受け入れることを、後回しにしたり、遅らせてしまうと、私たちはただこの状況が変わることを望み、その時を待つだけの状態から抜け出せなくなります。そして、実際には何も変わらないために、意気消沈して、何もかも間違っている、主が私たちに敵対しているとか、そのような後ろ向きな思いに捕らわれてしまって、私たちの証しを砕く足がかりとして敵が狙っている陣地を明け渡してしまいます。


この杯を受ける時、何をおいても、初めに覚えるべきこととは、私たちがそれを救いの杯として受けているとき、また、主の血にある償いとその血によって受け取ったすばらしい贖いを思い出すとき、その杯は、主が受けた苦しみをも共有するようにと、私たちに語ってもいるという事実です。・・・

そう、逆境と試練の炎を通して、キリストがかたち作られる中で、そこには主の賞賛と栄光へと近づいてゆく何かがあるのです。苦しみの中にある主との交わりが、結局は、よりキリストに似た姿へと近づけてくれるなら、この交わりこそがその何かに当たります。ですから、私たちが始めにすべきことは、この事実をじっくりと考え、それを心に受け入れることです。あなたは何を期待しているのですか、あなたは何を待っているのですか、あなたは何を心配しているのですか、あなたは何を願い、祈っているのですか?逆境や苦しみ、困難といいたものの全てから、完全、かつ、最終的に解放されることを祈っているなら、はっきり言いますが、その祈りが答えられることは絶対にありません。苦しみのかたちは変わっても、どのようなかたちを取っても、私たちが歩む道は最期まで逆境の中を進む道です。私たちがイエス・キリストの友である限り、サタンが私たちの友となることは絶対にありません。私たちがサタンに対抗する御国の一員であれば、サタンの王国も、私たちの加勢を求めて近寄ってこようとはしません。このことを、しっかりと受け入れましょう。そうすれば、私たちも、おそらく、この絡み合った罠から、自由になれます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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