2020年10月22日木曜日

【Daily Open Windows】10月22日

十月二十二日

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。(黙示録十八・四)

礼拝という面から見て、霊的な生き方とは何を指しているのでしょう?ああ、それは教会の建築様式のことではないし、祭服でも、しきたりでも、典礼のことでもありません。こういったものは、十字架によって捨て去られたのであり、それにいつまでも固執することは、十字架とは相容れません。今日の私たちを見てみましょう。このような類いのものを守ろうとするのは、主イエス様がもたらしたものを、正しく理解していないからです。・・・・では、なぜ、神が十字架において退けたことをいつまでも手放さず、低いところにとどまって、高きに至ることができないのでしょうか?この世界が、どこから道を誤ってしまったのか、あなたにわかりますか?


あまりに大仰な問いかけであることは分かりますが、この全てが礼拝につながっているのです。さて、この事実の霊的な意味に気づくことがなく、その中に入ることもできずにいるとき・・・・、また、古いものに固執し続けているとき・・・・あなたは、まだ魂の水準にとどまっているので、欺きに対して無防備な状態にあります。全てが恐ろしい欺きかもしれないのです。では、この欺きはどのように作用するでしょう?実はそのために、あまりに多くのよいキリスト者たちが、伝統的な制度に完全に縛られていて、それが、彼らに現されるべき神の啓示の前に立ちふさがっているのです。霊的な啓示への道を遮っているのは、彼らの伝統的な制度ですが、一方で、主イエス様の十字架は、神へと向かう霊の解放を象徴していて、これが、豊かな主のいのちと光へと導いていきます。

ヘブル人への手紙の全体が書かれた目的はこれです。それは、まさしく、この目的のためでした。ここにいたのは、キリストにある神との交わりの本質を伝える光を受け取った人たちでした――すなわち、主イエス様が宮、司祭職、いけにえ、しきたり、・・・・そして、安息日にさえ取って代わったという事実です。こうなると、もはや、形式、式典、外的な儀式、建物、司祭、いけにえなどは問題ではなく、キリストがすべてとなります。彼らは、それを理解していたのです。手紙の作者は、彼らに対し、宗教的、形式的、歴史的、伝統的な陣営から出て行くように呼びかけ、そのために、多くの迫害、排斥、孤立、孤独が引き起こされました。聖職に付いていた宗教家たちは、彼らの生活を非常に困難にしました。真に霊的で天的であるものを得るための代償は、今でもそうですが、この時代においても、とても高価なものでしたし、彼らは、古いものへと戻ってしまう大きな危険にさらされていました。ヘブル人への手紙は、彼らをその危険から救い、また、十字架から生まれたあの偉大なる変化――主イエス様の働き――について、余すところなく伝えるため、そして、それまでの世にあった制度、この世的な表現が過ぎ去って、これまでとは違う天的な真実が入ってきたことを知らせるために書かれました。・・・・いのちを持った主を知るために、私たちは、外的な制度という重苦しい着物から自由にならなければなりません。それなのに何故、制度を維持しようとするのでしょうか?主イエス様は、そのすべてを、十字架において取り去りました。全ては消え去ったのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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