2020年10月15日木曜日

【Daily Open Windows】10月15日

十月十五日

それは啓示によって上ったのです。そして、私の宣べている福音を、人々の前に示しました。(ガラテヤ二・二)

神のための新しい働きは、いつでも、そのために選ばれた者たちへの啓示によって始まるということ、これは非常に大切です。神がこのように語られ、選ばれた器たちに啓示を与えて、真に霊的な働きが成されたので、他の者たちはそれを手本としてとらえ、別の場所でそれを模倣しようと試みました。その結果、彼らはその責任を負うように――奉仕者、資金や様々な助けの源を探すように召されてきたし、今も同じことを求められています。これによって、今度は多くの悲しく痛ましい、場合によっては邪悪で世俗的な手段と方策が用いられることになり、そこで召された者たちは、自分が誤った立場にいることに気づきます。模倣ではなく、受胎が、新生をつかさどる神の法です。人間による選別ではなく、油注ぎが、継承ををつかさどる神の法です。事実、神の働きは、そこで様々な生まれつきの性質が表に現れ、満足を見出す領域となってしまっています。人は何かをしたり、何かを見たり、何かを持たずにはいられません。野心、獲得、達成と言ったものが、キリスト者としての活動の前面に現れたため、ほとんどいつも(率直に言わせていただきますと)、『私たちのもの』――『私たちの働き』、『私たちの役目』、『自分の分野』、『自分の担当』が大切になってしまい、そこには、妬み、競争心、敵意など、肉に属する多くのことであふれています。


生まれたままの人間にとって何もしないこと、何も持たないこと、そして、とくに、何も知らないことは、とても難しいことであり、それ自体が十字架です。しかし、もっとも重要な器に対しては、神は、このような状況を実地的な訓練と準備の場として備えられます。生まれながらに持っているものを完全に捨て去ることが、すべてを『神の(神から出ている)こと』(第二コリント五・十八)とするただひとつの道です。キリストですら、このように生きることを選ばれたのです。モーセの『私は口が重く、舌が重い』(出エジプト記四・十)、エレミヤの『私はまだ若い』(エレミヤ一・六)、パウロの『もはや自分自身を頼まない者となるため』(第二コリント一・九)といったことばを持ち出すまでもないでしょう。これらの言葉は、生まれたままの人間と霊的な人間の違いの大きさを、経験的に学ぶ中から生まれてきたものです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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