2020年10月29日木曜日

【Daily Open Windows】10月29日

十月二十九日

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(ローマ十一・三十六)

旧約と新約と呼ばれる二つの聖書、または、旧約聖書を年代別に分けて、たくさんの異なった書物が存在するのではないことを、私たちははっきり心にとめておくことが必要です。二つ、または、もっと多くの表現方法が使われることはあっても、聖書全体を通して、始まりから終わりまで、そこに表されていることはただひとつです。時代に分けて扱ったり、また、各時代に異なった性質に着目するという、私たちがよくやる聖書の読み方は、類型論と象徴主義だけを用いる方法と同じように、機械的な考え方をさせる効果はあったかもしれません。ですから、私はここをあらためて強調したいと思います。いくつかの異なった表現を用いながらも、神は、初めから終わりまで、ひとつの考え、一貫しただひとつの考えだけをもって働いておられます。その考えとは、あらゆることが、いつ、どこであろうと、御子を現し、御子に従うということです。


神の本質、そして、贖いの御業を完成されるという現実の中で、神ご自身がすべてを支配されます。聖書の最初の書から最後の書まで、そこにあるのは同じ神の本質であり、同じの神の働きです。旧約聖書から、新約への変化は、ただ、間接から直接へ、象徴から象徴されるものへ、その時毎の説明から霊的な事実へという変化に過ぎません。それが全てです。目的や目標は何も変わっておらず、そこに、根本的、基本的な変化はありません。どのようなかたちでも、原理が変わったことを示すものは何もありません。

おそらく、あなたはそんなことは知っていると思うでしょう。しかし、そこには、私たちが認めているより、はるかに多くのものがあります。例えば、神が族長たちを助けたとき、原理的には、それは、主が今、あなたや私を助けているのと同じくらい、神の御子によって行われていたのです。これはイスラエルについても同じでした。旧約聖書におけるイスラエルは、神の御子によって助けられたのであり、その点においては、私たちがこの世で助けられているのと同じでした。神はこれまで、決して、どんな時も、どんなかたちでも、御子によらずに、他の土台の上で働かれたことはありません。神の創造的な行いは、御子という土台に立って行われていました。『万物は御子にあって・・・御子を通して、御子によって造られ、御子のために造られた』のです(コロサイ一・十六)。この時から、すべては、同じ土台の上で続いてきたのであり、そして、キリストにあって完成するのです。どのような手段で、どのような方法で神が働かれたのであっても、神の立たれる土台はいつでも同じでした。そして、来たるべき時代にあっても、その土台は変わることなく続いていきます。それは、キリストという土台です。このことを、いつも覚え、はっきり理解しておくことはとても大切です。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: