2020年10月23日金曜日

【Daily Open Windows】10月23日

十月二十三日

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(第一ヨハネ五・十一)

私たちの証しがどのようなものか、それは全て主をどう理解しているかに拠ってきまります。もし私たちが、教え、伝統、解釈、人間の集まり、キリスト教に頼っているなら、大切なものを見逃すことになりますが、生ける神の方を向けば、主が生ける神であることを認める中で、主にあるいのちに入ります。その瞬間から、この全てが、私たちの経験の中で生き続けることになります。これは、言っても言わなくても、どうでもいいことではありません。初めに言ったように、私たちは皆、目を覚ましますが、起きるのが遅すぎた者もいます。私たちを眠ったままにしておいたものとは――不安な気分、不平不満、心変わり、嘆息とうめきを憶えながらも、私たちは自分が眠っていることに気づいていなかったのですが――人生の早い段階から、キリスト教や神の民の行いと関わりあってきたことでした。私たちにとってキリスト教、主との関わりは、まだ幼子だった頃から始まっていたものであり、その時から、主に関わる教えをまとめた制度の中に、私たちはずっと馴染んできたのです。私たちは、祈りを口にし、会合に集うことなどを教えられてきました。ある日、私たちは目覚め、この神は生ける神であるという事実に目が開かれました。私たちはこれまで長いあいだ、あるかたちで主と結びついてきましたが、そこでは、主は、個人的なものではなく、生ける神でもありませんでした。


こんなに初歩的な段階まで話を戻すことをご容赦ください。この点、皆さんのお許しを求めます。私たちの中にも、主とそのような関係にある人がいるかもしれまいからです。おそらく、あなたは、何かしら、主のことと関わりを持っているでしょう。しかし、このあなた自身が生ける神を、主が人格を持って生きていることを、個人的、内面的に享受しているかと、尋ねられたらどう答えるでしょうか?私たちは、そこに戻ってやり直さなければなりません。そして、聖霊がこれを、あなたの経験の中で既に現実にしたか、あるいは今、現実にしているのでなければ、何の意味もないことです。多くの人たちの人生において、長いあいだ、主の教えと関わってきたのに、突然、その目が開かれ、主とは人格を持つ生きたお方であったという真実に気付く日が必ず来るということを、私はよく知っています。このことに気付くと、私たちにとっても、それは実に大きなものとなり始めます。それは、あらゆる観点から見て、私たちにとってすべてを意味しています。私たちは今、主のものです!私たちは主を知っています!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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