2020年10月1日木曜日

【Daily Open Windows】10月1日

十月一日

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。(ローマ八・九)

おそらく、ほとんどの主の民にとっての非常に大きな問題は、私たちの中の自分自身から来るものとキリストから来るものを分かつ境界線を明確に保つことでしょう。敵の側からすれば、私たち自身の姿を絶え間なく目の前に掲げて、私たちの心を占めさせ、キリストを見えにくくすることが、効果的な攻撃となります。聖霊がサタンに対抗する最大の目的とは、キリストを私たちの視界に入れ、心を主で満たし、自分の姿をかすませることです。多くの主の民にとって、大きな困難が生じるのはここです。こうしていつもここで、流れがとどめられ、逆戻りして、私たちの思いは、自分のこと、自分は何者なのかということでいっぱいになってしまい、心をキリストだけに、主とは誰であるかということに向けることができなくなります。この二つを隔てる隙間、裂け目、谷間がいろいろなことで埋め立てられ、境界線が拭い去られてしまい、そこに混乱が生まれます。神は、初子から始められます。これが意味するのは、私たち自身とは根本的に異っているということであり、神が何を言われるか、そして、キリストにある、また、キリストが中にいるとみなされている人たちを神がどう見ているかを知ることが非常に大切です。・・・・


キリストが中にいるとき、神はキリストを通して私たちを見ます。ああ、私たちの内なるキリストの中にこそ神の思いがかたちを取って現れていることに、気が付いているでしょうか。主は私たちにそう語ることのできるお方です。主が私たちになさることはすべて、キリストとの関わりの中にあり、そのキリストは今では聖霊によって私たちの中におられ、また、その中に私たちがいます。初子である主が、常に死と復活とつながっているという事実を通して、神の立場から見れば、私たちの生まれつきの性質は葬られていると、神は語っておられます。そして、神の御子は、私たちから見れば、よみがえられた方として神の前に生きることを得た、ただ一人のお方です。他の全ての者は、神の目から見れば死んで葬られているのであり、神は私たちに、この態度を取らせようとします。私たちは死に、葬られていることを覚えてください。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: