2020年10月7日水曜日

【Daily Open Windows】10月7日

十月七日

パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。(第一コリント十・十七)

私たちは祈りの中で、キリストを自分の身体に取り込んでいます。見方を変えれば、祈りの中で、信じる者たちへと、主ご自身が移ります。私たちは疲れ切って祈りに向かい、新鮮な気持ちで立ち上がることができます。消耗し切った状態で祈りに入り、生まれ変わって立ち上がることもできます。私たちはただ、形式どおりの祈りの言葉を口にして、何かの祈りを捧げたのでしょうか?そうであれば、元気を取り戻して、立ち上がることはできないことを、私たちはよく知っています。形式的な祈りは、主のいのちを運ぶことはありません。形式的な祈りは、死をもたらすこともあります。しかし、本当に主を求めること、手を伸ばして、主を掴むこと、祈りの中で自分自身を主に捧げ切ることは、必ず、気持ちを新たにし、前向きにして、心を強めてくれます。祈ることで、疲れ切ってしまうのですか?それでも、祈りの中で疲れ切ってしまうことで得られるすばらしい力があるのです。肉体的には疲弊させる祈りの中でさえ、霊的ないのちに与えられる活力があり、私たちはその力をもって進んで行きます。確かに、祈りとは、聖霊がキリストを私たちの内に送り込む手段です。祈りとは、それを通してキリストを体に摂りこむ道です。主が私たちのいのちとなります。・・・


霊的な交わりを持つという神からの命令に気付くとき、私たちは主を体に摂りこみ、主は私たちのいのちとなります。それは、神からの命令です。これは、既に使徒行伝の中で伝えられています、『そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。』主の民の交わりには、途方もない恵みの手段があり、途方もないキリストの豊かさがあります。主の敵が信者たちの心を捕らえるのは、彼らが集まっていながら、主のことではなく、この世界の何事かを語りあっているときではないかと思います。主の民と共に過ごしているときも、自分が関心を持っている様々なことに夢中になってしまって、主については何ひとつ語らずに終わることもよくあります。しかし、主のことを語り始める時、そこで人は必ず豊かになり、必ず強められ、必ず何かが積み上げられてゆきます。これこそ、神のされることです。

交わりとは、キリストを信者に分け与える手段です。そして、霊的な交わりが可能な時はいつも、あなたも私も交わりを求め、交わりを備え、大切に育むべきです。今日、霊的な交わりの機会がなく、その交わりを得るためにはすべてを投げ出すことすら望んでいる主の子供たちが実に多くいるのです。主は、私たちの少なくとも二人をひとつにしたいと願っています。これが主の命令であり、キリストをお互いに与えることにこそ大きな意味があります。そうでなければ、何かが失われてしまいます。私たちはこのようなかたちで、主を摂りこんで生きるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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